第198回 農のいきづくまち

2025.2.27
いしだのおじさんの田園都市生活

前回の最後に書いた部分を引用再掲。

な~に谷っ戸ん田をやっていたころ、石田は田畑の現場に立たない管理職だった。
週末のな~に谷っ戸ん田が、田畑を愉しんでリフレッシュする場だった。
そして、いずれは、な~に谷っ戸ん田とグリーンの活動を結び付けようと考えていた。
な~に谷っ戸ん田のGWEP化。
いろいろオモシロイこと!
妄想していた。

少し、復習。
(コラムを読み返していただければよいのですが、、、)

な~に谷っ戸ん田は、市民が耕す田んぼで、
1反5畝(1500㎡)を12区画に見立てて、その区画を持つ仲間が毎週末に集まり、
米作りの全工程を農家さんの指導のもとでしっかり作業していた。
収穫されたコメは山分けするのだが、代金は種まき前に支払っている。
田んぼの季節が終わっても、雑木林の整備や農家さんの手伝いなど、
毎週いろんな作業があり、地権者さんや農家さんに少しは貢献していた、と、思う。
横浜市の栽培収穫体験ファームという制度に沿って運営し、助成金もいただいていた。
ホームページ https://www.yattonda.com/project/index.html

GWEPは、グリーン・ウィークエンド・プロジェクト。
(グリーンは、石田が30歳から50歳まで勤務していた障害者の福祉事業所、
横浜市青葉区で、石田の退職時は、8反の畑と3反弱の田んぼを耕作していた。
そういえば、1ヶ所8反の畑を紹介され、5人ほどの地権者さんと一括で契約できたのも、
な~に谷っ戸ん田でもお世話になっていた横浜市の職員のおかげがおおいにあった。)
土日や祝日には基本的に休業する福祉事業所であるグリーンの田畑で、
農作業好きでビール好きな学生などが集まって石田と作業していた。
農業には基本的に土日休みは無いし、
作物の都合を考えると、土日でも何かしら必要な作業があるし、
(この「作物の都合を考える」というのが、ポイント!)
平日の活動では、
利用者さんの支援こそが福祉事業の基本だから、農作業が後手に回り、
田畑の作物に対してはいろいろと積み残しもあるわけで、
また、(職員として?個人的にも?)農業の技術の獲得にはじっくり作業する時間が必要、
で、して、、、
とかなんとか言って、いい汗かいてビールを飲もうというノリで作業をしていた。
GWEPは、プシュッ、グビグビ、プハーッ、、、ん、、、ゲップ、なのだった。

あのころ、、、
な~に谷っ戸ん田の仲間たちはそれなりの農作業集団になっていた。
荒れていた雑木林が、かなりスッキリして、キンランが復活したのは象徴的。
その過程で、草刈り機なんて使ったことなかった人たちが技術を得て戦力になり、
草刈り機をぶん回す、そのキモチヨサを、「刃物快感(快汗)の会」と名付けていた。
お寺所有のチッパーシュレッダーを借りて竹林の皆伐をしたこともあった。
このときは、機械の轟音(ハンパない!)で「フクロウが営巣できなくなった」と、
自然保護派の会員からクレームが出たりもした。
イチゴハウスの苗の定植なんて、なかなか素人は体験できないこともやった。

貴重な体験が多々あったが、さすがに毎週というのは、ちょっとキツイ面もあった。
体力的にも時間的にもキツイという人もいたようだし、俺は調整が大変だった。
前述したが、農家さんって、一匹狼的で、調整は簡単ではなかったのだった。

GWEPは、Sくんがベトナムに棲みついてしまってからは休んでいたが、
ウィークエンドの作業の必要性がなくなったわけではなかった。
田畑の作業というものは、すればするほどなぜか増えるもので、、、
な~に谷っ戸ん田の仲間たちが、農を好きになり、技術も身に着けていったとき、
「ああ、この人財、グリーンにこそ欲しいなぁ」と、俺は思ったのだった。

ウィークデイは、利用者さんの活動があって、
ウィークエンドは、農を愉しむ市民の活動があって、
(その舞台となる農地や必要な機械は社会福祉法人が持っている)
農地がしっかり有効活用されるサイクルが回ったのなら、
そこに、みんながゴキゲンな「農がいきづくまち」ができるだろう、
と、俺は、妄想した。
それは、わが師である明峯哲夫が構想したものに近い。
(『生命を紡ぐ農の技術』明峯哲夫著作集、コモンズ2016、p370)

明峯さんは、「まちづくり農業公社」というアイディアも語っていた。
俺は、ちょっとカタイな、そのネーミング、
「公」より「私」こそが大切だというのが全共闘世代のテツではないか、
と思いつつも、
「地域にある人材と素材を生かしきる」こと、
(田んぼに必要な機械を共有するシステム、とか、、、)
それによって「まちの自給」を創ること、
そういうことを自分なりに追求してみたいな、
と、考えていた。

毎週末に青葉区のあるエリアに農に目覚めた人たちが集まる。
それぞれが、農を知る、そして、関わる、愉しむ、
そんな場が育っていく。
もちろん、ウィークデイのボランティアさんも増えていく。
そんな好循環が生まれ、
「農がいきづくまち」となる。
そこで、また、プシュッ、グビグビ、プハーッ、したいな。
なんて、、、

だが、
あのときは、
そちらには進まず、
俺は、
なぜか、転居までして、
人生を変えてしまったのだった。

自分でも思ってもいなかった予想外の展開。
そんなこともあるよね。
今思えば、それも必要な過程だったのかも、、、

俺がグリーンを退職したとき、ビックリした人が少なからずいた。
「グリーンといえば石田さん、と、思っていたのに」とか、
「石田さんがいないなら、もうグリーンを応援する気もなくなる」とか、
「なんで?」
って、イブカシク思った人も、、、

なかには、
暴力事件?
お金の不祥事?
って、疑った人もいた、ような、、、

しかし、
しかし、ですよ。
実は、
暴力を振るわれたのは俺の方だし、
金を取られっぱなしなのも俺の方。

そんなこと、今ごろ持ち出しても、ね、
そうです。
だが、あのとき、
ドンパチをやっていたら、、、
グリーンが崩壊しかねない状況だったので、
そういうことにならないように処理した、
のです。

(ああ、言っちゃった。しばらくしたら、この部分は削除します)

そういえば、
俺がグリーンを退職したときに、
声をかけてくれて西荻窪の「のらぼう」で呑んだのが、
明峯哲夫さんと大江正章さんだった。
俺が、2人の遺志を継げるとも思わないが、
地域のコモンズである田畑で「農のいきづくまち」を、
創ってみたい。

(炎上する?かなぁ、、、 石田周一)

いしだのおじさんの田園都市生活