第207回 「この子らを世の光に」について1
2025.11.29いしだのおじさんの田園都市生活
親愛なる読者のみなさん、
(すみません。具体的にイメージできる人はそう多くは無いのですが、、、)
みなさんは、「この子らを世の光に」という言葉を聞いたことがありますか?
今や、障害者福祉の仕事に携わっている人たちでも、
「知らないよ~」かもしれないのでは、と、危惧しているのだが、
「障害福祉の父」と言われた糸賀一雄(1914~1968)の言葉だ。
戦後も間もないころだろうか。
「この子らはどんな重い障害をもっていても、だれと取り替えることもできない個性的な自己実現をしているものである。人間と生まれて、その人なりに人間となっていくのである。その自己実現こそが創造であり、生産である。私たちの願いは、重症な障害をもったこの子たちも立派な生産者であるということを、認め合える社会をつくろうということである。『この子らに世の光を』あててやろうという哀れみの政策を求めているのではなく、この子らが自ら輝く素材そのものであるから、いよいよ磨きをかけて輝かそうというのである。『この子らを世の光に』である。この子らが、生まれながらにしてもっている人格発達の権利を徹底的に保障せねばならぬということなのである」(「糸賀一雄著作集Ⅱ」)
まだまだ社会全体が貧しく、
障害者は見向きもされなかったころだろう。
「知的障害」という言葉はまだ無かっただろうし、
まして、「発達障害」については、その概念のカケラも無かった時代だろう。
ちなみに、俺は1980年代の半ばにこの世界に関わり始めたが、
(糸賀さんの時代から20年以上経っていたわけだ)
そのころは、法的にも「精神薄弱」と言われていたし、
自閉症や発達障害は「情緒障害」とも言われていた。
俺、
「そうだ、この子らにではなく、この子らを、だ」
と、感動して、
以来、そういう思いで仕事をしてきた自負が小さいながらある。
が、
それもちょっと問題かな、
と、
最近は、思っている。
障害のある子どもにしっかりとした教育や訓練、
いや、もっとベースのところで、ていねいな「子育て」をして、
「世の光に」することが大事で、
そこに参画することが俺の仕事、
って、思って、やってきた。
つもり、、、
その子の持っている能力が高かろうが低かろうが、
それを精一杯発揮してくれたら、
それは美しい「光」だ。
それは、「世」を照らし、良くしていくことかもしれない。
そんな思いかな、、、
でも、それって、
見方によっては、「上から目線」かもしれないし、
まして、「世」を良くするために「子ら」があるわけでもない。
そもそも、糸賀さんの思想は無条件に認め合うことを求めている。
(「いよいよ磨きをかけて輝かそう」、とも言っているが、、、)
だが、俺は、
しっかりと育てられて持てる力を発揮して光っている子、
と、
育て方がうまくいかずにスポイルされ光っていない子、
を、
分け隔てて考えていた。
多少なりとも子どもが育っていく道筋が分かり、
発達を助け何かを獲得させるための技術も身に着け、
分かった気になったりすると、
それは危険で、
ああこの子はポイントを外して育ってしまったな、
いいもの持っているはずなのに光っていないな、
などと、差別的な目で見てしまう傾向もある。
そして、スポイルされてしまった子は、
「この子には世の光を」の思想で育てられたかな、
残念じゃないか、と、思う。
イカンイカンなのだが、、、
見せかけの豊かさが社会を覆い、
一方で生きにくさをかかえる人たちは増え、
そんな世でサバイブしていくには、
光をあててもらえるように、
受けられる支援は上手に受けた方がいい、
そういう考えが主流になるのも仕方ない、
の、だ、と、思う。
親の身になれば、
「この子には世の光を」だ。
「子育て」を他人や機関やシステムに託すことも増えた。
そういう時代だ。
それが「福祉が進んだ」ということなのだろう。
きっと。
それでも、やっぱり、
その支援というのは、
持てる力を(精一杯に)発揮して(懸命に)生きていく、
そのための支援であってほしい。
(つづく)
