第3回 篤農家でロマンチストの父~二人の叔父のこと

2026.2.28
手作り、仲間作り、ときどき旅

篤農家でロマンチストの父

父は次男に生まれたから、本当は歯医者を目指していたらしいの。それが長男の死で急遽家を継ぐことになったんだから、すごく葛藤があったでしょうね。でも切り替えの早い人だったから、家業を継ぐべくすごく努力したみたい。一から農業を勉強し始めてね。熱心に平塚の農業試験場に通ってさまざまなことを教わってきて、自分なりの農業を考えたんでしょう。まだ周りで誰も作っていなかった梨、桃、ブドウなどの果樹を植えて、果樹園を始めたの。それが戦時体制になり、畑は食糧(米、麦、芋)確保のために使えと言われ、果物などは贅沢品とされて果樹は全部処分しなければならなくなってね。そこで父は近所の農家に梨の木を二、三本ずつ預かってもらって戦時中をやり過ごし、戦後すぐに預けた木を回収して果樹園を再開したの。収穫した梨は朝4時に起きて横浜の市場に牛車で運び、まだ果物など出回ってない時代だったから、すごくよいお金になったみたい。父には先見の明があったのかしらね。

私が中高生の頃は、袋かけなどよく手伝ったものよ。朝、登校前に袋かけをしてて、時間がなくなって走って駅に着いたら、モンペの上にスカートをはいてたりしたこともあったわね。

父は農機具を導入するのも早かった。キャタピラの付いた大型の耕耘機は、県内で一番先に使ったそうよ。いま藤沢市周辺でブランド化されている「湘南梨」の始まりも父でね。いまでも農園の一角に「菊水」という梨の古木があるの。父はとにかく研究心旺盛な人で、農業関係の月刊誌を読んで気になる記事を見つけると、北海道でもどこへでも出かけて行って聞いてくるし、平塚の農業試験場にもよく足を運んでた。

趣味も多彩でね。独学でヴァイオリン、ウクレレ、ハーモニカなどを奏でたり、歌うことも好きで上手でしたよ。藤原義江というオペラ歌手が特に好きで、よくレコードを聴いてたわね。そして彼の「波浮の港」とか「出船」などを、果樹の剪定をしながら歌ってたわ。若い農業改良普及員相手の講座の講師を頼まれたりすることもあり、『全国篤農家便覧』にも父が載ってたみたい。

父の夢は子ども三人に果樹、野菜、酪農と部門を分けて担当させ、総合農場を作ることだったの。でも現実には娘二人が婚期を逃すといけないから、大きな農家に嫁に行けとよく言ってて、結局私も妹も農家に嫁いだのね。父はつねづね「嫁に行くなら農家に行け。農業はやりようによってすごく儲かる仕事だから」と言い、私も農業は嫌いじゃなかったし、父のやり方を見ていたから、ホントにそうだなと思ったの。父の跡を継いだ弟は、働き盛りの五十七歳で他界。いまは姪がお婿さんを迎えて果樹園を守ってるの。姪は一男六女の子宝に恵まれ、長男は近々結婚するみたいよ。

二人の叔父のこと

父のすぐ下の弟、三男の叔父、義一は陸軍中尉だったけど一度退役し、拓殖大学ロシア語科に入学。卒業後、ソ満国境で特務機関の仕事をしてたの。それが終戦時から行方不明になり、戦死公報が来たのが昭和29年(1954)3月。県庁で母が受け取ったのは白木の箱に入った誰のものか分からない髪の毛だけでね。それまで母は毎日、叔父のために陰膳を供え続けていたのよ。

四男の四郎叔父は、千葉高等園芸学校(現千葉大学園芸学部)に行っててね。松戸に下宿してたので、運動会や剣道大会があると、よく私は祖父に連れられて見に行ってたの。下宿に泊めてもらってね。叔父は卒業後、満州の農業試験場へ就職し、祖父は会いに一度満州まで行ったわよ。 叔父はそこで召集を受け、一度帰国してから幹部候補生として入隊。南方をあちこち転戦し、ニューギニアで終戦を迎えたものの、知らずにそのままジャングルをさまよい、翌年二月に発見されたときには、何人も生き残っていなかったらしい。叔父は当時のことはあまり話したがらず、ネズミや蛇を食べた話くらいしか聞いてないの。昭和21年(1946)に船で帰国し、広島県大竹の病院にしばらく入っててね。秋になって父と叔母が迎えに行き連れて帰って来たんだけど、お腹が妊婦のように膨れ、黄疸で目は黄色。怖くて近寄れなかったわ。

一晩家に泊まって、国立戸塚病院に入院してね。私と妹は母の言いつけで、休日になると卵や牛乳を届けに藤沢から原宿町の病院まで歩いて行ったのよ。当時バスは通ってなかったから。結局、普通に戻るまで一年半くらいかかったわね。でもマラリアの発作は長く続いてたみたい。私が高校生の頃は京都府丹後の農業試験場に勤めていたので、修学旅行の帰りに寄ってきた思い出があるの。その頃叔父は種なしブドウの研究をしてて、日本で最初にジベレリンを使って種なしブドウの栽培に成功したのは叔父なんだって。後年「日本農業近代化技術百選」に選ばれて、表彰されたのよ。その後、埼玉の農業試験場を最後に退職。上尾でブドウ作りをしてて、毎年私にも送ってくれてたの。九十二歳で亡くなったけど、すごく穏やかで誠実な人でした。自分史を送ってくれたけど、戦争体験は書いてなかった。よほど思い出したくなかったんでしょうね。

<次回:私の学生時代~お見合いから結婚まで>

平野 フキ

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