
第2回 手作り、仲間作り、ときどき旅 ~私の半生記 平野フキ
2026.1.31手作り、仲間作り、ときどき旅
私の実家は藤沢市長後にあって、戦後、マッカーサーが厚木飛行場に降りて横浜の宿舎に向かったとき、うちの実家のすぐ上の滝山街道を通るというのでみんなで見に行ったの。当時、うちの蚕室に疎開していた朝日新聞の記者だった人が事前にそのことを知っていて父に話し、それを父が近所の人にしゃべったので、みんなで見に行こうということになったわけ。私も友達を誘って行ったんだけど、ジープが列を作って大和から戸塚の方へ走って行くのを見てみんなが「あれだ、あれだ」と言うから、私もはっきりしないけどあれがマッカーサーかと。そのとき自転車に乗ったお爺さんがやって来て、ジープに石を投げつけたの。お爺さんはすぐ捕まってどこかに連れて行かれたけど、やっぱり負けたのが悔しかったんだろうね。
度外れた孫可愛がりー祖父のこと
私の生家は代々「与五右衞門」と名乗っていて、父は十代目だったの。二代前の曾祖父に子がなかったので、親戚から欣一、ギンを迎え夫婦養子としたのね。そして四男四女に恵まれたけど、長男与四郎が東京農業大学在学中に結核で亡くなってしまったため、次男つまり私の父松之助(二十歳)が、与四郎の婚約者だったタケ(二十歳)と結婚するはめになったわけ。その後四年目にようやく長女の私が生まれたときの祖父の喜びは、ひとしおだったでしょうね。
父の結婚を機に祖父は隠居し、曾祖父の時代に富士の裾野の演習場に視察に訪れた明治天皇が宿舎に使われたという別棟に、女中さん一人と暮らしていて。祖母ギンは長男の看病をしているうちに自分も結核にかかり早くに亡くなったので、私には祖母の記憶がないの。祖父は再婚せず、野毛の芸者さんをひいきにしてて、足繁く通っててね。妻の他に女性を持つのは男の甲斐性と言われていた時代だから、公認だったみたい。長後からタクシーに乗って野毛まで行ってたのよ。母が二人目を産んでから私は祖父と一緒に寝起きするようになってたから、よく私も連れていかれたことを憶えてるわ。その人と一緒に中華街へ行ったこともあるし、おみやげに眠り人形をもらったこともある。その人のことを私は「野毛のおばちゃん」と呼んでなついててね。祖父が昭和十六年(1941)に亡くなった後も、毎月月命日にお墓参りに来てくれて、私も一緒にお墓参りに行ったのよ。でも横浜大空襲以後は音信不通になってしまって、その人がどうなったかわからずじまい。
祖父は自分では農作業せずに、全部何人かいた作男まかせ。父が結婚すると、もう田畑のことはいっさい父まかせでね、自分は入ってくる年貢の管理だけ。どこの誰兵衛が何俵持って来たと、よく耳にはさんだ毛筆で、こよりで綴じた通い帳につけてたわね。そしてお米の相場を毎日読みながら売ってたの。家には馬力引きという人が二人ばかり出入りしてて、ときどき蔵から米俵を引き出して横浜まで運んでたのをよく覚えてる。そんなことだけやって、当時の地主は生活できてたのね。
私を溺愛してた祖父は、朝から私にお酌させてお酒を飲むのが楽しみだったみたいで。お酒が切れると手がふるえたりして、完全にアル中でしたね。私を肩車してフラついてたのを思い出すわ。祖父の孫可愛がりは本当にすごくて、いつも私のためにキャラメルをカートン買いし、そのせいでフキは歯が悪くなったと母が言ってたくらい。
私は昭和十年(1935)生まれ。二つ違いで妹が生まれ、さらに昭和十四年(1939)に弟が生まれて、七、五、三の三人兄弟になったの。私が生まれたときも派手にお祝いをしたそうだけど、弟が生まれたときの祖父の喜び方はすごかったらしい。長後の方では男の子が生まれた家は五月の節句のとき凧を揚げる習わしがあって、弟のときも初節句というので何畳敷きと言われる巨大な凧を作り、揚げさせたんだって。5月の4、5、6と三日間もね。その凧は藤沢からも見えたそうだから、いかに大きかったか。そして町内の饅頭屋さんを三日間雇って柏餅を毎日作らせ、それを近隣の人たちやそれを聞きつけて押し寄せた人たちに大盤振る舞いしたんだって。お酒も飲み放題だったので、すごいことになったみたいよ。
昭和十六年(1941)11月15日、孫の七五三のお祝いの日に、これも長後の風習で紅白の餅をついてお祝いをくれた家に配るんだけど、それを配り終えた後、祖父の姿が見えないので探したら、蔵の二階で事切れてたの。アル中だったから脳溢血だったんでしょうね。六十三歳でした。その年の12月8日に太平洋戦争が始まり、何でも配給とか衣料切符でしか手に入らなくなり、世の中が窮屈で不自由な時代になっていったでしょ。だから「お酒が手に入るうちに祖父が逝ってくれてよかった」と叔母たちがよく言ってたわ。
人にやさしい合理主義者だった母
祖父は食道楽でもあったので、酒の肴を作るのが大変だったそう。でも女中さんの作るものは魚とかお豆腐ばかりで美味しくない。そこで「食事を作る人にうまいものを食べさせないと、うまいものを作ってもらえない」と言って、ときどき母をタクシーで横浜の中華街に連れて行き、いろいろ食べさせてくれたんだって。あの時代にしては珍しいことだったんじゃないかしら。母も一所懸命味を覚えてきて、それを作って出すと祖父は喜んで食べたそうだから、母も作り甲斐があったでしょうね。
料理好きだった母は、辰巳浜子さんの料理の本を買ってきて、いろいろ作ってたみたい。いま私が作ってる煮梅とか栗の渋皮煮などもそう。みんな母が作ってたのを私も手伝っていたもので、いまでも毎年作るのが習慣になってて、時季が来ると体が動いてしまうの。
私の結納のときは、母が料理をすべて手作りしてくれてね。築地まで鯛を買いに行き、自分で串を打って炭火で焼いたり、口取りも折り箱だけ買ってきて中身は全部手作りしたり。羊羹、キントン、伊達巻など、見事な口取りだったわ。そんな母を見習って、私も長女の結納のときは全部手作りしたのよ。
母は戦後始まった農山漁村の近代化のための生活改善運動に共鳴し、すぐ生活改善グループに入り役員になって、熱心に活動してたわね。母は旧習や世間体にとらわれず、良いと思ったら実行する人だったの。
私が小学校四年生の春、私のクラスにミヨちゃんという子が転入してきてね。彼女の家にアメリカの飛行機が墜落し一家全員が亡くなり、学校に行ってたミヨちゃんだけが残されたと先生から聞いたわ。親戚の家に引き取られていたんだけど、いっさい口をきかない子でね。意思表示は首をタテか横にふるだけ。大きなショックが彼女をそうさせたんでしょう。お弁当は一度も持ってこなかった。それを聞いた私の母は、毎日二人分のお弁当と牛乳ビンを私に持たせたの。また学校帰りにミヨちゃんを連れてくるように言い、ミヨちゃんも誘うと私の家に寄るようになってね。アラレや草団子のおやつを食べたりしている間に彼女の着ているものをぬがせ、大きな釜で煮て熱湯消毒するの。つまりシラミ退治をしたわけね。髪の毛もすき櫛ですくと、太ったシラミがいっぱいとれて。そこで頭を洗ってあげたり、家の子と同じように面倒をみてあげてたわ。あの頃、駅には白衣を着て募金箱を首にかけた傷痍軍人がいて、母はそういう人を見るとすぐ募金箱にお金を入れてた。それも人より多めにね。母は本当にやさしい人でしたよ。
<次回:篤農家でロマンチストの父~二人の叔父のこと>
平野 フキ
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