第208回 もちつき2025
2025.12.30いしだのおじさんの田園都市生活
「ちゃんと、真ん中をつくのっ!」
「ぺったん、って、音がするように!」
と、叱咤されながら、杵を振った。
90歳のばあちゃん。
友人の母。
「イッシャアがつくのかい」、
「しょうがないねぇ」、
と、
手返しをしてくれた。
ご存知ない方もあるだろうけど、
餅つきの本当の主役は手返しだ。
ま、主役というか仕切り役かな。
手返しが、リズムを取ってリードすることで、スムーズに杵が振れ、餅ができる。
ムラが出ないように臼の中の米のかたまりをコントロールするのも重要。
子どもや初心者が杵を持っていたら、なおのことリードが大事。
「あと10回!」「よいっしょおー!」などと、盛り上げて、
10回が終わったら「ほら、おいしいよ」と餅をちぎって食べさせる。
「ハンゴロシが美味いよ」などと言ってね。
で、この友人宅での毎年の餅つきの手返しは俺が担っている。
のだが、大御所のばあちゃんからみたら、
まだまだ頼りないのかもしれない。
でも、かれこれ40年。
10年位前までは、10臼以上を杵づきしていた。
が、最近では機械の力に頼っていて、今年は杵づきは2臼のみ。
で、ばあちゃんが返しをしてくれたわけだ。
それまで、火の番しながら、干物やネギなど炙って呑んでいたから、、、
実は、この餅つき、俺が田んぼに関わる原点でもある。
(2009年にもこの餅つきのことを書いている)
中学のサッカー部で出会った友人だが、
餅つきにお邪魔するようになったのは20代の半ばだったと思う。
そこで、餅つきの楽しさを知った。
当時、子どもたち相手の仕事をしていたので、
子どもたちにこれを体験させたいと、思って、頼んだ。
まだ、ばあちゃんじゃなかった、から、おばさん、って呼んでいたか???
近くの青少年野外活動センターを会場として、
今ではそのセンターにも餅つき道具はあるが、当時は無かったので、
友人宅の軽トラに道具を積んで、
「指導してください」と、おばさんにも出動してもらった。
この餅つきは子どもたちに大好評だったなぁ。
楽しかった思い出もあるが、
あのころは、若かったが責任者でもあったので、、、
よくやったな、と、思う。
で、何回か餅つきをしているうちに、
「この米も子どもたちと作ってみたいな」と、思うようになった。
なんで、そんな発想になったか?
(そのへんは、また、別の機会に振り返るとして)
友人の家は元々は農家で、
そのころには田んぼはやめてしまっていたが、
本来は自分で作った米で餅をついていたのだろうと想像して、
なんらかの連続性を求めていた?
かどうかは、ちょっとアイマイだが、
子どもたちと、父母たちもまきこんで、チェレンジしてみたい、と。
しかし、
田んぼをやってみたいと思っても、
では?実際にどうすればよいのか?
わからない。
田んぼは、家から1㎞ほどの谷本川沿いにあったし、
職場から1㎞ほどの恩田川沿いにもあったのだが、
知り合いに田んぼをやっている農家もおらず、、、
そんなとき、谷本川沿いの田んぼ道をジョギングしていたら、
稲刈りをしているあのオッサンは!
あのツナギ姿は!
谷合先生、タニアイボディ!
「センセイ、何やってんですか」
「おお石田、見ての通り稲刈りだよ。M中の授業」
その先生は、名物先生で、
親族の経営する板金屋のツナギ(背中にTANIAI BODY)を着て授業。
その姿でなぜか銀座NOWにも出演したり、、、
障害のある子をからかった生徒にビンタを張っていた姿も憶えている。
あの青葉台中学の校庭にある池を造ったのは先生と俺たち。
いや、タニアイボディなら技術家庭の授業で田んぼをやるとか、ありだよな。
(そのころは、まだ学校水田とかあまりなかったんじゃないか?
それに、今でも学校水田は、ほぼ小学校だろう)
と、思いながら、
「センセイ!俺も田んぼやってみたいんですよ!」
と、躊躇なく言葉が出ていた。
すると、その一言から、
もう翌週には恩田川沿いの田んぼの地主さんに話を通し、
M中の指導をしていた村田和美さんに指導をお願いし、
翌春から俺は子どもたちと田んぼをすることになった。
そして、
初めての田植えには、
この友人宅に集まるサッカー仲間も来てくれたっけ。
(つづく)
(七輪で炙ったネギは上手いよ : 石田周一)
