第173回 青葉台1967 その6 「昔」の暮らし

2023.1.30
いしだのおじさんの田園都市生活

1967(昭和42)年、青葉台に引っ越してきたオジサンは、5歳、幼稚園年長だった。
それから10年は、田んぼや野山を駆け巡り、虫などと戯れ、泥だらけの幸せな里山少年。
団地のジャリ!も楽しかった。
そして、1977(昭和52)年。
15歳、思春期だ。
今住んでいる家に引っ越した。

中学の同学年にガールフレンドができた。
流行りの交換日記など、やった。
何を書いていたんだか、ほとんど、おぼえていない。
たぶん部活の話題とかだったのだろう。
田中角栄が逮捕されたことを書いたおぼえはある。
半年も続かなかったように記憶している。
今だったらメールのやりとりになるのだろうか。
メールが当たり前になったのは、その20年後くらいだね。
でも、メールだったら、廊下で直接ノートを渡すドキドキは無いかも、ね。
周りに冷やかされながら、恥ずかしくも、腹立たしくも、嬉しくもあった。
元気かなぁ、○子さん。

高校時代は、1回戦ボーイだったが、サッカー部生活。
楽しかったかどうかは、ナントモイエナイが、体力という財産を得た。
彼女もいたよ。
そのころの電話は、黒電話が家に一本というのが普通。
ダイヤルをジーコジーコ、やるやつ。
そして、そもそも我が家では、電話は、主に父と母が仕事の連絡で使うものだった、から、
彼女からの電話がきても、父も母も不機嫌というか、仕事モードで、「はい、石田です」。
だから、彼女は嫌がったし、長電話なんて(キャッチホンもないから)ご法度だった。
(プッシュ式が普及したのは1985年ごろから、か?)
「夜9時30分ぴったりにかけるから出てね」なんて約束するんだけど、、、
サッカーの練習でヘバッテいて、うっかり居眠りしちゃっていたり、、、
今だったら、スマホの無料通話だよね。
まぁ、どちらが良いかと較べるものでも無いけどね。

大学入学、1980年。
初めての電車通学で、多摩川を越えて、浮かれて、勝手にシティボーイ気どり。
電車の中では、文庫本や、カッコつけて『朝日ジャーナル』を読んでいた。
今、電車ではみんなデジタルの画面だよね。『週刊朝日』でさえ廃刊だし、、、
ワープロやPCが1985年ごろ、携帯やネットは1995年ごろ、スマホは2010年ごろ、、、
ざっくり、こんな感じで、世の中のスタンダードになってきたかな。
大学では、毎時限の最後に万年筆で指定の原稿用紙にレポートを書くという授業があった。
頭の中で学んだことや考えを整理し、的確に一発で文章化するという趣旨だったか?
思考力と文章力が鍛えられた、力がついた、か、と、思った。
が、その後、ワープロで書き直しもコピペも自在になり、その力はあえなく崩壊。
じゃあ、万年筆生活に戻りたいかというと、もう無理。
この文章も、何回も書き直して、いるのです。実際。

さかのぼるが、幼稚園年少のころ、「ウルトラマン」に夢中になった。
ピコーンピコーンピコーン、シュウワッチッ!
バルタン星人、レッドキング、シーボーズ、メフィラス星人、アントラー、ゼットン、、、
初回は1966年。
青葉台に来る前、辻堂団地に住んでいた時代。
すでに放送はカラーだった(その前の「ウルトラQ」は白黒)が、家のテレビは白黒。
ブラウン管テレビは箱型で、リモコンは無く、チャンネルもボリュームも回すものだった。
テレビ放送の開始は1953年。
1957年、評論家は「テレビというメディアは低俗であり、一億総白痴化」だと、断じた。
今、メディア状況は、さらにさらに進化深化しており、メディアの発達は人間の堕落?
オジサン的には、ウルトラマンのその後のシリーズは堕落と思った。(見ていないけど、、、)

カラーテレビの登場は1960年。
「1960年当時のカラーテレビは約50万円と、白黒テレビ(5万8千円)の10倍近い値段。これは現在の価値でおよそ280万円に相当し、庶民が気軽に購入できる値段ではなかった。」(統計データ.com/物価)
(えっ、白黒でも現在の価値で30万円?!)
「1950年代の日本では、冷蔵庫、洗濯機、そしてテレビが家電の「三種の神器」と呼ばれ、これらを所有する事は裕福さの象徴でした。」(同)
(60年代後半には、三種の神器は、カラーテレビ、クーラー、車となった)
と、ある。
素直に、物質的な「豊かさ」を求めていた時代だったのかなぁ。

青葉台で暮らし始めたとき、冷蔵庫はドア一つ。洗濯機は二槽式、そして白黒テレビ。
ちなみに、風呂にはシャワーは無かった。
クーラーも無かったけど、あまり必要とも思わなかったなぁ。
俺の生まれる前に両親が暮らしたアパートは、風呂無しとか、トイレが共同だったそうだ。

家電製品やそのテクノロジーの変化、
それによる人間の行動や社会風俗の変化、
思い出してみたり、想像してみると、オモシロイ。

この1月2月、職場の里山公園で、小学3、4年生対象の「昔のくらし」という授業がある。
江戸時代の長屋門、大正の土蔵、釜屋や納屋もある旧家のゾーンが学びの場となる。
千歯こきなどの昔の農具、わら草履やみの、かまど、羽釜などを見てもらう。
「電気炊飯器はまだ無くて、羽釜をかまどにすえて薪に火をつけて」と話す。
道具などの実物を見て、暮らしを想像し、学んでもらう。
「70年ぐらい前の、裕福な家のお話しですよ」という前提だ。

70年前は、私も体験していない。
想像するしかない。
が、60年前を経験しているから、小学生よりは親近感があるかもしれない。
小学生に50年前や70年前を語るのはなかなか難しいと思う。
身近なテクノロジーの昔をヒントに想像できないか、などと考えている。
「君たちは授業でタブレットを使う最初の小学生だよ」って知らされてはいるだろう。

この50年で、環境もだが、テクノロジーが急速に進んだ。(あえて進歩とは言わない)
そして、暮らしが大きく変わった。
そのことで、人間のマインドや生理(野生)まで変わっているようにも思える。

55年前の青葉台周辺を経験している。
だから、伝えられることは伝えてみたい。
70年前も知りたい、し、経験した時代の経験していないことも知りたい。

「青葉台1967」はつづく、、、

(絵本の完成に向けてドキワク、石田周一)