第172回 青葉台1967 その5 里山が街に

2022.12.29
いしだのおじさんの田園都市生活

前回ね、冬でも半ズボン、足を真っ赤にしながら遊んでいた、
教室ではだるまストーブで、当番さんは石炭小屋に石炭を取りに行った、
というような、話をしたけど、、、
1970年が近づいていたころ、おじさんが小学生高学年になるころの話だね。

家では灯油ストーブ、アラジン。
火が燃えていて、その上で豆が煮られたりしていた記憶もあるよ。
そして、コタツでみかん。
みかんは、寒い玄関のダンボールにあって、コタツを出るのが億劫。
兄弟でジャンケンして誰が取りに行くかとか、やったもんだよ。
(いや、小さな団地のリビングでの話だけどね)

そして、冬の遊びは、コマ回しや凧揚げ。
あれって、なんで冬になるとやるお約束だったんだろうね?
竹馬はなぜか夏にやっていたように思うけど、どうだったか?

コマ回しは団地の公園でやっていたんだ。中央公園。
低学年から高学年まで入り乱れていたね。
団地のいいところかな。
ベーゴマ、鉄ゴマ、ぶちゴマ、そして、地球ゴマなんてものもあった。
やっぱり戦いがあって、鉄ゴマをヤスリでみがいたり、紐の巻き方を工夫したりしたね。
手乗り!とか、綱渡り!とか、技を友達と張り合ってやっていたね。

話しがそれるけど、中央公園のブランコではエックス飛び、って技もあったんだ。
鉄棒でも、、、コウモリ飛び、だったかな?
おかしなこと、やっていたよね。
擦り傷が絶えなかったよ。

凧揚げは団地の向こうの造成地に行ってやっていたんだ。
夏に虫とりをした雑木林の周りには、ブルドーザーが山を切り崩した造成地があったんだ。
子どもたちは何て呼んでいたかなぁ?
「コウジゲンバ」だったかな。
今なら鉄の塀で囲うんだろうけど、あのころは、そうではなかったのかな。
有刺鉄線を見た記憶もあるけど。
広々していて、凧揚げにはモッテコイの場所だったね。
家族で焚火して焼き芋をしたこともあったよ。

凧もね、お父さんといっしょに手作りしたこともあった。
高学年のころかな、竹ひごと半紙を買ってきてね、けっこう大きなやつを作ったよ。
じょうずに作らないと、あがらなかったり、あがってもクルクル回ってしまったり。
重心をとったり、尻尾の長さを調節したり、ね。
絵も自分で画いたけど、タコの絵にしたり、ね。
八本足の海のタコだよ。
洒落といえばそうだけど、フザケタ小学生だったんだよね。
で、コウジゲンバに入って、走り回って、高く高くあげてね。
「糸が足りないよー」なんてね。
寒い中でも、元気に、無邪気に、遊んでいたわけだけれども、、、

その場所は、今では住宅街なんだ。
団地から引っ越した友達の家もけっこうあるんだよね。
kくん、hさん、aさん、oくん、、、
でも、造成されてコウジゲンバになる前は雑木林や田んぼの里山だったわけだよね。
子どもだから、その前後の関係などは考えなかったように思うな。

でも、無邪気に遊んでいた小学生がその現実を知る体験もあったんだ。

夏には虫のいる場所を探して探検して、いい場所見つけて、たくさんとって、喜んで、、、
で、秋、冬、春、で、また夏だぁ!と、
前の年にワクワクした場所に行ったら、その林が無くなっていたときの悲しさ。
「喪失感」なんて言葉を小学生が知る由もないけど、、、
好きだったものが無くなってしまって悲しい気持ち、お別れ、、、だったね。
「さよならだけが人生だ」を知ったときだった、かも、、、

でもね、実は、今、石田さんが住んでいる家も、そういう場所にあるんだ。
見ていたわけではないけど、雑木林を伐って、地面を削った場所だろうね。
虫たちが住んでいた林などが「造成」「開発」されて、人が住む街に替わっていったんだね。
悲しいけど、石田さんも、そこに(虫を殺す側に)参加していたわけだ。
また、元をたどれば、その前に住んでいた団地も、同じように「開発」が作ってくれたんだね。
俺たちは、里山を街に変えて、そこで暮らしていたんだ。

(過去を振り返りつつ、将来を考え、、、る、かも、、、おじさん、石田周一)