第168回 青葉台1967 その1 田園都市線青葉台

2022.8.31
いしだのおじさんの田園都市生活

おじさんはね、
1961年、昭和36年の生まれなんだ。

1961年っていうのはね、戦争が終わって16年、
1960年には、革命が起きそうになって、でも、失敗して、
高度経済成長が始まる、っていう時代なんだよね。

おじさん、1964年の東京オリンピックの開会式の数日後に3歳になって、ね、
ちょうど駒沢公園の近くに住んでいたもんだから、
万国旗がはためいている光景が、ね、目の奥に残っているんだよね。
両親が撮ってくれた写真では重量挙げの真似をしている姿があって、
ダンボールでね、バーベルを作ってもらって、ね、
ジャボチンスキーっていう選手が金メダルを取ったんだよね。
3歳のおじさんは「金メダル」って言えなくて「キンデマル」だったんだって。

おじさん、生まれたときの住所は吉祥寺の父の実家で、
その後に何回か引越しをして、
1967年、昭和42年、5歳の時に青葉台に住み始めて、
中学生のときに今の家に移り住んで、
大人になって、一人暮らしをしたり、
三鷹市民も6年くらいやったけど、
トータルで50年以上、ここで暮らしていて、ね、
仕事も、ね、ほとんどこの地域でしているし、、、
だから、まぁ、ここ青葉区が故郷なんだよね。

最近、その1967年ごろの青葉台について、ね、
思い出したり、調べたりして、あらためて考えているんで、
そのことを話しましょうか。
まぁ、聞いてみてください。

青葉台の駅ができて田園都市線が通じたのは1966年の4月。
そのとき、溝の口から延びて、大井町から長津田まで通じたんだけど、
それまでは、田園都市線は溝の口と大井町の間だったそうで、
今、それは、大井町線だよね。
で、新玉川線が二子玉川から渋谷に通じたのが、1977年。
それまでは、渋谷に行くには、自由が丘で東横線に乗り換えていたんだ。
自由が丘にはよく行ったね。中学生のときとか。ソハラレコードや三省堂書店。

1967年の田園都市線は4両編成で、
日中の鷺沼と長津田は2両編成という時代もあったんだって。
のんびりしていたんだよね。
うっすらと記憶があるなぁ、、、
あの「青ガエル」っていう車輌も走っていたんだよ。
緑色でしもぶくれで丸っこいやつ。
子どものときは、あの車両が来ると、「ハズレ」なんて言っていたけど、
今、もしも走っていたら、「アタリ!」だよね。
今は10両編成?本数も増えたしね。

ちなみにね、
横浜線は1908年明治41年に開通していて、田園都市線より50年以上前だけど、
これは、このルートに大きな意味があったからなんだけど、わかりますか?
そのころの日本の近代化の根本を支えていたあるものを運んでいたんだよね。
長津田駅もその年に開業しているんだよね。明治だよ。
でも、ハマセンって、最近まで、ボロ電車の代表みたいに言われて、
長津田駅が複線化したのが79年、全線の複線化は88年、もう翌年は平成だからね。
最近でも台風とかで最初に止まるのがハマセン、ってイメージ。
おじさんが子どものころは単線で、チョコレート色の電車が走っていてね、
ドアとドアの間にポールが立っていたんだよ。
もちろん、冷房なんてないよ。
窓を開けるとね、土の匂いというか、もう肥しの匂いだよね。

さて、また、青葉台だけど、
最初はね、駅も小さくてね、駅の周りはガランとしていたんだよ。
3棟の公団と青葉台団地は、駅ができて1年くらいでできたのかな。
おじさん、
幼稚園も小学校も駅を抜けて通っていたんだけどね、
小学生の頃は駅前で野球とかしていたね。
あとね、夜にカブトムシを拾いに行くの。
あちこちに雑木林があったから、
駅の灯りに虫が飛んでくるわけ。
今の青葉台駅からは想像できないよね。

1980年に大学生になって初めて電車通学になったんだけど、
そのときも原付バイクを駅前に平気で放置して出かけて行っていたね。
これも今では考えられないけど、
調べたら、1980年に青葉台から乗車する人の数は1日平均2万人程度で、
それが93年に5万人を突破して、今も5万人台だけど、ね。
1967年の人数を知りたいんだけど、今のところ調べられていないんだよね。
どうすれば調べられるかなぁ、、、

青葉区や青葉台の人口もね、60年代は調べられていない。
青葉区ができたのが、1994年で、そこからの数字はあるけど、
だから、今の青葉区エリアの1967年ごろの人口って?
調べられていないんだよね、今のところ、、、
誰か?どうかな?

おじさんの経験から言うと、
おじさんは1968年につつじが丘小学校に入学して、青葉台団地から通って、
1974年に同じ小学校を卒業するんだけど、
その6年間に、おじさんが4年生になるとき、青葉台小学校ができて、
青葉台団地よりも道路1本隔てた同じ青葉台の友達はそちらに移って、
おじさんが6年生になったときに榎が丘小学校ができて、
青葉台団地はその学区になったけど、6年生はそのままつつじが丘小に通って、
つまり、小学校が2回も増えていたってことは、人口もどんどん増えていたんだろうね。

1980年ごろのことを言うと、ね、
そのころまでね、「青葉祭り」ってあってね、夏にね、
今の東急デパートのところが広場だったんで、
櫓が立って盆踊りがあって、屋台が並んで、
そんな、なんか、牧歌的な感じだったんだよね。
おじさんもね、リーバイスはいてヘインズのTシャツにリーゼント風で、
笑っちゃうけどね。
祭りに行くと、なんか、もうそこにいる人がみんな友達みたいな、
いや、友達というか、顔見知りなんだよね。
そんな、まだまだ、町が小さい感じがしたよ。
これも、今からは想像がつかないよね。

いや、1967年に話を戻すけど、
町名が青葉台になったのは、1967年の5月、
で、なぜか5月5日なんだけど、
その前は1939年昭和14年から港北区恩田町だったんだよね。
青葉台駅も青葉台団地も港北区恩田町にあったんだよね。最初は。
青葉台駅は、当初、成合という駅名の案もあったんだって。

で、港北区青葉台が緑区青葉台になったのが、1969年。
青葉区青葉台になったのが、1994年11月なんだよ。

おじさんは5歳でここに来たわけだけど、
おじさんの同級生にはここで生まれた人もいて、
いや親の代とか先祖代々ここで暮らしている人もいて、
だから、電車のない時代から、
住宅地になる前からだよね。
ちょっと想像できないけど、想像したいし、知りたいよね。
郷土史などで調べることもできるね。

電車の前の交通ということで、道路について考えると、
国道246がほぼ田園都市線と並行してあって、
渋谷から厚木のイメージだけど、正確には千代田区三宅坂から沼津市上石田で、
それは、古くは全部で8本ある「大山道」の一つの「青山通り大山道」にリンクしていて、
大山阿夫利神社への信仰の道だよね。
おじさんが子どものころから、「このみちは大山街道だね」なんて両親も話していて、
でも、それは、細い道でね、なんか侘しい感じがあったんだよね。
市ヶ尾の地蔵堂とか、市ヶ尾幼稚園のところとか、藤が丘のショートコースの横とか、
それは、今もところどころに名残りがあるんだよ。
青葉台は、今のジョナサンのところにあばら家が建っていてね、、、
そこには、つい10年位前まで「よしず」という古くて素晴らしい居酒屋があったんだ。

今回は、電車のこととか町名のことなどの話ばかりになってしまって、
映像があるともっとオモシロイんじゃないかと思うんだけど、、、

またの機会に、
おじさんたち子どもたちがどんな生活をしていたかとか、
自然環境、里山のこととか、
話してみようかなぁ。

(絵本のワークショップを妄想している、石田周一)

いしだのおじさんの田園都市生活