神奈川・緑の劇場 vol.9
2022.3.31神奈川・緑の劇場
地産地消の野菜市は平和を求める営みと思っています。
幼いころ、戦争はすぐそばに感じられました。
横穴を掘った防空壕は子どもたちの探検ごっこにはうってつけの場所でしたが、一番ちびだった私は、最後尾がら恐る恐る足を踏み入れ、そのとたん、戻れぇ!と叫ぶ兄貴分の声にほっとしたものです。
石原裕次郎の映画にも登場した古い横浜駅では、戦争で手足を失った人々が白い衣裳に軍帽を被って、アコーディオンを演奏しながら道行く人々からのお金、おめぐみを求めていました。「傷痍軍人」といいました。その前を通り過ぎる時には、おそらく私は、母の手をぎゅっと強く握ったに違いありません。
京急富岡駅の海側と山側をつなぐガードはまだ無く、小さなトンネルが線路の下をうがっていましたが、米軍の機銃掃射を受けて、トンネル内に逃げ込んだ人々が大勢亡くなったといいます。トンネルは今も残っています。
空襲で破壊されたコンクリートの建物を見ることもありましたし、飛行機のための防空壕、掩体壕も残されていました。
父母たちの戦争と、私たちの戦争
父は、陸軍通信隊で内地勤務。京都で終戦を迎えたと聞きました。父の叔父は、広島日赤病院の外科部長だった、服部達太郎氏です。通勤途中の橋の上で被爆しました。いつもよりも出勤時間が遅かったとのことで、いつもどおりだったならば助からなかったといいます。
父は、除隊後すぐに広島に入り、叔父を助けながら、広島の遺体の始末などにも携わったらしく、後年、「あなただって広島で被爆しているのよ!」「何を言ってるんだ。そんなことあるか!」と言い争っている両親の姿を覚えています。当時、自分がどこまで理解していたのか、幼いのにもかかわらず、広島の被爆が自分ごとに思えた瞬間でした。
母はと言えば、東京大空襲と、その後の空襲で被災しています。が、戦時中は海軍省にいたらしく、どうも、海軍の将校さんに素敵な人がいたような・・。このあたりは、子どもとしては、詳しく聞くのはためらわれるものです。
昭和2年生まれの母が存命ならば95歳です。大正12年生まれの父が存命ならば99歳。
そうして私は、いつも戦争を意識しながら過ごしてきたのです。私にとって、一番の脅威は徴兵制でした。自分がおとなになるころには、徴兵制が復活しているんじゃないか?
やがて、自分に子どもが生まれると、この子たちを徴兵制から守りたい。と思うようになりました。
若者や子どもたちの命を犠牲にするようなことを許してはなりません。
今、桜が満開です。コロナで3年目の桜は、さらに悲しい装いに見えてしまいます。父母が若かったころのように、再び、国のために、見事に命を散らせと言わんばかり。惑わされてはなりません。
他国民を排斥すること、人種差別を戒め、ジェンダー平等を追及します。若者たち、子どもたちを大切に、彼らの未来に責任を持つ大人であるならば、一切の戦争を否定し、戦争につながる行為の芽を摘み取りましょう。
核兵器は廃絶する以外に使用を止める道はなく、軍備増強は各国の日本への警戒感を増すだけです。アジアで2000万人、日本でも300万人が犠牲になった歴史の末に得た日本国憲法であり、第9条は、日本だけでなく、世界に広げなければならないのです。
「神奈川・緑の劇場」
演劇の神様に出会って導かれたのは二十歳のころ。登山を少しだけかじったのがきっかけで、子どもたちとの一週間を超える夏の登山キャンプ、冬のスキーキャンプのお兄さん役に加わったころでした。
演劇の神様は、農耕の神様と、すごく仲がいい。
演劇を通して、少しずつ農林水産業に近づいて、舞岡・水と緑の会の、今ではすっかり人気になった舞岡公園へと、やがて結実する休耕田の復田や谷戸の植林にも関わることができました。
本格的に地産地消の産直センター「神奈川農畜産物供給センター」で働くようになったのが1987年でした。5月で35年になります。同じ年の5月3日、憲法記念日に合わせて50名以上が参加した市民ミュージカル、第一回「がんばれ!日本国憲法」の上演に企画の立案時から参加しました。濱田重行さん作・演出、くろだゆうじさん(故人)が音楽を担当され、子どもから高齢者までが舞台に立ち、あるいは上演を支えました。その中には、オウム事件によって妻と子どもとともに殺害された坂本堤弁護士の姿もありました。
私は産直センターでの仕事に追われるようになり、舞岡での活動にも参加できなくなり、憲法劇も翌年の第二回の舞台に立ったのを最後に離れましたが、何回目かには農業をテーマにした場面をつくる時に、脚本作りや、舞台に登場する本物の農産物の提供を、生産者の皆さんに協力してもらったり、稽古の一環では、ちょうど瀬谷区のウドの季節でしたので、見学会と試食学習会を、やはり生産者の協力のもと、行うことができました。
このころ、郷静子さん作の芥川賞受賞作品「れくいえむ」の朗読を始めたり、広島・長崎の被爆体験手記を構成した、地人会の「この子たちの夏」朗読劇の横浜実行委員会に加わった時には、上演後の懇談会に服部達太郎氏にも参加してもらいました。
今、「野菜市」を通して、またNPO法人・よこはま里山研究所・NORAや、(株)ファボリ、フリースペース「しばた」の活動を通して、変わらずに紙芝居や朗読、民話の語りも続けています。男女共同参画センター「フォーラム南太田」で、18年目となる野菜市では、ジェンダー平等について自らを戒めることも多く、しかし、若者たちとの貴重な交流の場になっています。さらに、「子ども食堂」や「学生への生活支援」に、生産者とともに農産物の無料提供を続けながら、子どもたちとの関わりも増やしていければと思います。
(2022年3月30日記 三好 豊)
三好 豊(みよしゆたか)
1954年に生まれ父親の転勤により各地で育ちました。 1975年10月、杉並区阿佐ヶ谷南の劇団展望に入団。1982年退団して横浜に戻り演劇活動に参加してきました。1987年5月、(有)神奈川農畜産物供給センターに入職し、県内各地、各部門の生産者に指導を受けることができました。2004年に退職し「神奈川・緑の劇場」と称して県内生産者限定の野菜の移動販売を始めました。NPO法人よこはま里山研究所・NORAの支援はたいへんに大きく、これからも都市の暮らしに里山を活かす活動の一環として生産者との関わりを大切にしたいと考えています。また(株)ファボリとその仲間たちとの繋がりには、心躍るものが生まれています。