第163回 How?Why?Why?How?

2022.3.31
いしだのおじさんの田園都市生活

「どうすれば都市において農福連携が創れますか?」
と、いうようなご質問をいただいた。

ある機関を通じて、相談に対応することとなった。
(いちおう、「専門家」として、、、)

23区内のとある区立の事業所を指定管理する大きな法人の若手職員。
23区内でも、練馬、世田谷、足立などはまだ農地も農家もそれなりにあるが、
航空写真で見てもほぼ灰色の街にあるビルの中の事業所。
そして、それなりの歴史のある大きな法人では新しい動きは作りにくいと想像される。
ん~、、、
オモシロそうじゃないか!

「都市にこそ農が必要」とは、明峯哲夫さんから引き継いでいる課題。
その昔、石田頼房という学者もそんなことを言っていた。

その都内も北の方にある事業所を訪問し、
利用者さんや職員さんたちにお会いして、
作業の様子などを見せていただき、
街を歩いたり、地図を広げてみたり、、、
都会での農の実現を考え、
あるいは、横浜の現場を見てもらい、連携を模索するなど、
若い職員の無謀なチャレンジに寄り添う。
と、私はアレコレを想像し、妄想した。
が、
とりあえずは、Zoom会議ということになった。

質問の大枠は、以下の通りだった。
①都市型農業を始めたきっかけ
②利用者や職員に農福を説明する時に苦労したこと
③農福を取り入れた時に要した時間

「きっかけ」は大事だ。
なぜ、福祉現場で農を取り入れたか?
あるいは、これから取り入れていくのか?
いわゆる「ノウフク」に向かってくときに、
福にとっては農は手段であるはずで、
Howを問う前にWhyを問うことが必要だ。
と、最近とても感じている。

石田の場合、
障害のある子どもたち(幼児から中高生まで)と活動していた。
やがて、大人になっていく青年たちの「働く」を考えていた。
地域に養護学校卒業後の進路先が不足していた。
青年たちの障害は比較的重く、問題行動のあるケースも。
親御さんたちといっしょに課題を持って悩んでいた。
という下地があって、
そんなときにこころみ学園の川田園長の講演会に参加。
重い障害のある人たちが、シイタケ栽培など自然の中でいきいきと働いているという。
これは!と、思い、みんなでバスを借りて足利まで見学に行った。

学園の食堂で川田園長が語ってくださった。
その力強い声の波動にビビビッと来た。
「彼らは働いて自然を守っている」
「社会的に意味のある仕事では障害が重くても彼らはやる」
「過酷な労働に耐えて本当に生きる喜びがある」
語りに涙を流す母たちもいた。
「兵役中に病気を装って逃れた負い目があって、、、」とか、
「子どものころ、親の手伝いをして、「猫よりはまし」と言われて働く喜びを知った」
など、ご自分のこともユーモラスに話してくださったと記憶している。
「昭和30年ごろまでの農家の暮らしが人間にはちょうどよいものであり、
 人間として虚飾のない知的障害の人たちに合っていると考えている」
ということもおっしゃっていた。
Aくんと夏休みの実習に参加することになった。

実習では、夏の暑さのなかでのシイタケの原木運びを体験した。
原木を担いで、傾斜の急な山の斜面を登ったり降りたりを繰り返す。
今でもあのときの筋肉の躍動感を腿の辺りに思い出す。
しかし、まさに「過酷な労働」
お坊ちゃん育ちの石田には厳しかった。
が、Aくんはいい顔をして頑張っていた。
そして、翌年、「こころみ学園、行くっ」ときっぱりと言った。
仲間を増やしてボランティアも頼んで10人弱ででかけた。

汗が噴き出す仕事はやはりキツかった。
が、
青年たちは、都会での姿と違っていきいきと働いていた。
そして、
休憩のときに飲んだいっぱいのお茶。
「お茶って、こんなにも美味しいものだったっけ」と感じた。
また、
木陰にそよと吹く風には、「風って、こんなに気持ちいいものだったか」だった。
そのとき、
「働く」ってこういうことなのか、
いや、
「生きる」ってこういうことなのか、
と、身体が思考していた。
この体験が、私にとっての原点でありWhyだと思っている。

翌年、また夏が巡ってきたとき、
「ああ、またあの苦しい労働が待っているのか」と、尻込みしていた私に、
青年たちは、みんな、「こころみ、行くぅ」「行くっ!」と口々に主張し、
(メンバーはことばを話さない子たちも多かったが)
そこに決定権があり、再び合宿となった。
石田は、引率しているのか?後ろから付いて行っているのか???

そして、青年たちが高等部を卒業するころ、、、
中に一人、状態が悪く、学校に半分ほどしか通えていない青年がいた。
中学生のころから自閉症特有の様々な問題行動によって周囲を困らせていた。
高等部時代には、「カタマル」というテコでも動けなくなる現象が出ていた。
かと思うと、突然飛び出して夜中でも家から出て行ってしまう、
ので、母はパジャマを着て寝たことが無かった。
だが、彼はこころみ学園ではとても良く働いたし、
言葉はないが、目でよく見て作業するし、手先も器用。
なのだが、学校では、「不安定」を理由に、実習にも出さなかった、出せなかった。
義憤?を感じ、彼にしっかり働いてもらう場を創ろうと思った。
それは、こころみ学園を模して農を取り入れた作業の場だと思った。
WhyからHowを考えていたのかもしれない。

様々な経緯を経て5,000㎡ほどの傾斜地にまずは300本ほどのシイタケの原木を並べた。
これがグリーンの始まりだった。
彼は、グリーンに通い出すと1日も休まずに来て、しっかり働くようになった。
そこでは、自閉症に対応する様々なテクニックもあったが、
なにより、空の下土の上で汗をかいて働く、こころみで教えられたものがあった。
そう、こころみの川田園長はグリーンの開所式に来てくださった。
仲間たちが働く斜面地を見たときのコメントは忘れられない。
「ここはいいねぇ。平らなところがほとんど無い」
「みんなでここを開墾して畑も作ったらいい。きっとみんなよく働くよ」

始まって間もないグリーンでは、職員も経験が浅く試行錯誤の日々だった。
青年たちと共にグリーン流の「農による福」が創られていった。
私も若くガムシャラで、今思えば楽しい日々だった。
農に取り組むと、その奥深い世界で、青年たちの力やイキイキが引き出されていった。
農は福にとって必要と実感。
福のために農を知り活用していく日々だった。

先日、ある学習会で「ケースワークとしての農」として報告。
いや、実は時間の制約があって、あえて小見出しだけの紹介にとどめた。
・昼夜逆転、かたまりと飛び出し → よく働く男Yくん(これは、早かった)
・昼夜逆転、不安定と他害 → 温和な笑顔Eちゃん(すご~く時間がかかった)
・毎日汚れものがお土産 → 定期排便で克服Tくん(これは、一発で決めた)
・歩行困難、目も手も離せない → 斜面も単独歩行Mくん(楽しく時間をかけた)
・朝吊り上がっていた目が作業して垂れ目になる Kくん

拙著『耕して育つ』(コモンズ2005年)では、「内なる収穫」という表現を使った。
農を手掛かりとして、青年たちのきらりと光る何かをたぐりよせた。
WhyとHowを往ったり来たりして農を実践してきた。

あれから30年、今、福の現場で農に取り組もうというWhyが増えたと思っている。
障害のある人たちだけでなく、多くの人にとって、いや、全ての人にとって、農が必要。
都市にとって農が必要。
農の場があれば、そこでいろいろなものが耕される。
コモンズとして、地域に交流なども生まれ、多くの笑顔が見られる。
農の多様性が多くの福を呼んでくる。

冒頭に紹介した相談に対しては、
「まずは、外に出て、できれば土の上に立って、身体を動かせる活動を探そう」
と、応えているが、、、
今後を楽しみたい。

(公園のオジサン、石田周一)