第115回 ノーマライゼーションを誤解
2018.3.29いしだのおじさんの田園都市生活
グウタラの大学3年生が、それでも4年生になるころ、
シティボーイのつもりだった私は、初めて障害児とかかわった。
地域の訓練会というグループにボランティアとして参加した。
それより2年ほど前が「国際障害者年」だった。
テーマは「完全参加と平等」
だが、しかし、もちろん、やっぱり、
それが私のボランティアの動機になったわけではない。
本当の動機は、、、
今回はそこがテーマではないので、別の機会に。
障害児に初めて会ったとき、
そのときの想いについては拙著『耕して育つ』に書いたので、
参照していただきたい。
「出会いはカルチャーショック」と書いてある。
これも、今回のテーマではないので、またいつか、
と、いうか、もう今では障害者とかかわることが日常なので、
もうあのときの新鮮な気持ちは雲散霧散してしまった。
残念。
でも、今でも新しい個性に出会って想定外の驚きを感じる現場にいる。
さて、訓練会、だが、
「名前がコワイよ」と言われることもあった。
何をどのように訓練するのか?
ここも詳しく掘り下げるときりがないので、止めておく。
この会のことも拙著に書いたので、参照していただきたい。
ま、今の言葉にすれば「子育て支援」なのだろうが、、、
(ただ。今の「子育て支援」は、負担の軽減の支援ばかりのようだが、
この会の「子育て支援」は、ひたすら向き合うことを迫るものだ)
この会の基本的な考え方は今も変わらない。
一途というのか?
なんといえばいいのか?
変わらないのだ。
子育ての原則は不変にして普遍であっていいのだろうが、、、
会のサイトには以下のようにある。
「私たちも、ハンディを持っている子どもたちには、専門的な育て方があり、特別なかかわりかたをするものなのだろうと思っていました。
しかし、たくさんの子どもたちとのかかわりの中で、まず、子どもとして自然であたりまえな子育てが大切なことを知りました。」
その「あたりまえ」がたいへんなのが、今の世の中ではあるが、
サイトに続きをランダムに抜き出す(勝手ながら、、、)
「■ 感覚を育てる
(身体感覚、五感)は、大きくなってから身につけようとしても、なかなか難しいものです。年齢相応にあたりまえの体験をする中でこそ、育っていくようです。
小さな頃から、自然の中で、新鮮な空気や太陽の恵みの中で活動させ、しっかり育てていきたいものです。
会では、山登りやハイキング、散歩にでかけ、自然の中で遊ぶことをこころがけてきました。
■ 生活の中で、確かな力をつける
* 生活リズムをつける
* 自分のことは自分でする
■お手伝いや仕事をする力を
家庭や社会において、子どもに役割があり、何かができることは、子どもにとって自信になり、生きる力をたくましくしていきます。
■自己コントロールができるようにする
■いっしょうけんめい、やればできる! (子どもたちに確かな自信を)
■社会性を育てる
■ことばを育てる(やりとりのできる子どもに)
くりかえすが、
今の子どもたちを取り巻く環境は、この「あたりまえ」が難しい。
「あたりまえ」を手に入れるために、かなりの努力が必要。
そのころ、私自身がアタリマエの生活をしていなかった。
ダラダラ夜遊び夜更かし、グズグズ朝寝、昼寝、ときに夕寝、
歩けばすむところにもバイクで出かけ、
(ちなみに、そのころ、原付はヘルメット不要)
ウイスキー、ジャンクフード、チェーンスモーク、
身近に里山があることも忘れて、ブヤ、ポンギ、
ああ、いや、あれはあれで、うん。
大学生としてはアタリマエ、だったか?
それでもなぜか、
週に1回、子どもたちのところには休まず通った。
子どもたちを見続けていると、成長がわかるときがある。
1月前には、いや1週間前、いや1時間前にできなかったことが、
できると思えなかったことが、
できた!の瞬間を目の当たりにする。
感動!
親子の地道な努力を見るにつれて、
人間というものは引力に逆らって成長するものだと、知る。
私は、
水が低いところに流れるような生き方を、少し、恥じた。
「あたりまえ」の子育ての成果に感動し、
障害があっても可能性があることに感動した。
すると、その次の感動を求める。
成長、発達、とは、
もちろん、その子なりの絶対的な姿がある、のだが、
ある意味、フツーに近づいていくこと、にも見える。
障害を「発達の遅れ」としてとらえると、
「遅れ」をとりもどして、追い付く、ないし後追いする、
モデルは、やっぱりフツーの発達であって、、、
時代は、「ノーマライゼーション」を語り始めていた。
これは、本来、「障害があってもノーマルな生活(人生)をする」と言う意味だ。
朝に起き、夜に寝る1日。
学んだり働いたりのウィークデイと休日のある1週間。
季節を感じ、長い休みもある1年。
あたりまえのライフサイクル。
夢や希望を持つ。
普通に地域の普通の家に暮らす。
異性や異年齢との交流。
平均的経済水準など。
つまり、
それができない状況に障害があると追いやられやすい、
から、あえて、目標になる、ということである。
障害があることに起因して、日中の仕事や活動がないと、
朝起きてもすることがなく、寝ている。
そのうち、夜寝ることもおろそかになる。
あれれ、グウタラ大学生のこと?
いやいや、
ちなみにノーマライゼーションは理念ではない、
原則である。
と、研修で知った。
しかしながら、
「療育」的なかかわりに染まり、発達支援モードであると、
ノーマライゼーションとは、「ノーマルをモデルに育てること」
と、まっすぐに誤解してしまう。
「あたりまえの子育て」が、ノーマライゼーションの誤解を生む、
と言ったら言い過ぎ、ではあるが、、、
この会での子どもたちやかかわる人達からいろんな影響を受けた。
山登り、農作業、
そう、都会から里山に戻って来たのも、ここでの子どもたちとのかかわりからだ。
そうして(話が飛ぶが)農業へたどり着く。
その経緯も拙著に書いたし、前回のコラムにも書いたので省略。
(書くたびに話が違ってしまうから、省略)
シティボーイのつもりだったのが、
農の世界を知るようになると、
空の下で生長(成長)するものと過ごす日々を知り、
自分がかかわったものを食べる暮らしを知り、
「耕す」ということを実感するようになると、
これがアタリマエの生活(人生)と思うようになる。
誰もが自ら耕して食う暮らしをすることが、
イマジン、であり、ラブアンドピース、であり、
だから、安藤昌益「万人直耕」、山下惣一「市民皆農」、
石田周一「な~に谷っ戸ん田」?
これがノーマライゼーションと思うようになる。
農マライゼーション、
俺、いつも誤解しながら人生(生活)、やっている。