第114回 それは、ケースから始まった

2018.2.28
いしだのおじさんの田園都市生活

iくんとは、彼が保育園に通っていたときからの付き合い。
マルコメ頭でくりくりっと可愛かった。
よく、抱っこしたり、肩車したり、一方的に私がジャレていた。
大学出たての私は、「自閉症」を理解していなかった。
友達の姪っ子が1歳の頃からよく遊んだ(遊んでもらった)経験があって、
小さい子は大好きだった。
5歳になってもしゃべらない彼との付き合いだった。

毎日、同じ道を通って園に通うことにこだわる。
チガウ道を通ろうとすると、小さな体を固めて動かなくなる。
かなりガンコ。
そういうコダワリは崩してあげたほうがいいと言われていた。
悶着の末、抱きかかえたりしてチガウ道で園にたどり着く。
ふと目を離したスキに姿が見えなくなる。
抱きかかえられた場所まで戻っていつもの道を歩いていた。

父は、腕のいい料理人で、店の2階が自宅だった。
小学生の彼に皿洗いや包丁仕事を仕込んでいた。
ことばは発しないが、目で物事を理解する力はバツグン。
それなりの手伝いになっていたようだ。
しかし、スキを見て醤油のビンを空にしてしまう。
スッキリ空っぽが好きというか、じゃないと視覚的に気持ちが悪いのだろう。

中学校に上がると嵐の思春期。
夜中に家を飛び出してしまう。
線路に立ち入り電車を止めてしまったこともあった。
母はパジャマを着て寝られない生活となった。
地域の学校に通いきれなくなり、養護学校へ移る。
それでも、父も母も彼を連れて私たちの活動に参加していた。
私たちが、私が、初めて田んぼで作業をした日。
休耕田で刈られた草をせっせと運んでいた彼の姿。
たくましくて、嬉しかった。

高等部に進むとますます荒れた。
昼夜逆転の日常。
目つきもおかしく、白目が濁っていた。
店に下りてきて客の食事に手を出すようになった。
食べてしまうわけではない、コップの水に指を突っ込むのだ。
また、天井を含めて気になる場所に手と足で触りまくる不気味な行動。
「祖先のたたりですよ」と忠告してくれる客もあった。
結局、店は閉店に追い込まれた。

高等部では母が車で学校まで連れて行っても、車から降りない。
先生たちも降ろすことができない。
結局、連れて帰るしかないということも多かったという。
学校は後手後手の対応で、「実習に出せない」となる。
進路を決める実習に出せず、進路が決まらない。

私が統括していた前職の事業所(そのころは地域作業所)で受けた。
いろいろ問題はあるが、本来の作業能力は高く、体力も抜群と分かっていた。
まずは、日々通ってもらうことが第一だった。
母は頑張って送迎ポイントまで車で連れてきた。
そこでストライキが始まる。
車のシートから背中が剥がれない。
引っ張ったくらいではびくとも動かない。
しかし、いろいろ(文章に書けないことも含めて)試行錯誤して、
半年くらいで、私の顔を見たら降りるようになる。

全く休まずに通所し、農作業で「大」がつく活躍。
日々屋外で身体を動かすことで顔色も表情もよくなる。
高等部時代は半分以上欠席となっていた彼が皆勤賞。
固まったり、飛び出したり、時々やらかすのだが、いい働き手になった。
動かせばもともとの能力の高さを発揮することは予想していた。
密かに「F1」と名付けていた。
普通免許では動かすのも大変だがポテンシャルのあるマシーン。
若かった私は、F1ドライバーを気取っていた。
それに引き替え教員は「使えない」などと嘯いていた。

だが、大きかったのは私の力量というよりお天道様と山の斜面。
そのころ私たちのフィールドは「ヤマ」と呼ばれていた。
青葉区の端っこの谷戸の奥の北斜面を開墾して無理矢理作った畑。
シイタケ栽培もしていた。
こころみ学園の川田前園長が見に来てくれたとき、
「ここはいいねぇ。平らなところが無くて」と言われた。

こころみ学園は急傾斜にブドウ畑があり、ワインを醸造している。
シイタケ栽培や地域の山の手入れの手伝いも。
私たちの活動のモデル。
川田園長は、
「人間が能力を発揮するには自然の中での厳しい労働が必要」
「戦前の百姓のような労働とつつましい生活の中にこそ喜びがある」
と、語っていた。
「福祉」業界では批判もあった。

iくんが中学生のころ、彼以外にもいわゆる困難ケースが何人もいた。
大人になったときの「働く」姿、働く場が想像できなかった。
実際、地域に場が圧倒的に不足していた。
親御さんたちも不安を抱えながら活動し、模索していた。
自分たちで場を作るしかなかった。

私は何人かを引率してこころみ学園の夏合宿に参加した。
初めてのシイタケの原木運び。
暑さと急斜面と原木の重さに私自身が必死だった。
彼らも同じように必死で原木を運んでいた。
汗だくになりながらなんとか原木の上げ下ろしをしての休憩。
ゴクリと飲んだ一杯の水の美味さ!
ソヨと木陰を渡る風の心地よさ!
身体全体が感動した。
彼らもことばにはしないが同じ思いだったのではないか。
共に額に汗する体験。
「働く」とはこういうことだと思った。
それが原点。

そのころの私は農業も林業も何も知らなかった。
学生時代にはほとんど関心も無かった。
だが、この経験から外で身体を動かす仕事に関心を持つようになった。
親御さんたちと丹沢方面などに出かけて「ヤマ」を探し始めた。
親御さんたちは、野良仕事のできる場を見つけて活動を始めた。
私もちょっとした偶然から地域で田んぼを始めた。

そして、彼の卒業が迫り、学校の対応に限界を感じていたころ、
地域で「ヤマ」に出会った。
前述の谷戸の北斜面。
確かな見通しなど無かったが、ここで彼らと「働く」を創ろうと思った。
こころみ学園を模倣して、彼らが力を発揮できる場を、と。

4半世紀前、
私なりの「農福連携」との出会い、「里山のシゴト」との出会い。
それは、ケースから始まった。

石田周一

いしだのおじさんの田園都市生活