第33回 故郷を耕す その2
2011.5.31いしだのおじさんの田園都市生活
蕗の薹で春の訪れを確かめる。
竹の子を掘るのは、仲間と汗を流した竹林。
キンランは草刈りと落ち葉はきのご褒美。
田植え後の宵、カエルの合唱。
ホタルは夏の労働への序章。
田に這いつくばる草取りだって、
仲間とならば、
身体は辛くても食べるために働く生の快感がある。
暑さが過ぎ青田が黄金色にうつろい、
稲が米になるとなぜかサビシイ。
故郷横浜青葉区でそんな暮らしをしている。
やっと手に入れた暮らしだ。
北の米どころの暮らしを想像してみる。
先祖のころに較べれば労苦は減っただろう。
野良の主役が家族から機械に代わった。
しかし、新米を家族で喜ぶ暮らしは不変にして普遍。
風土に根ざした暮らし。
米を金に換えてタツキを紡ぐのは手段に過ぎない。
風土に根ざし代を重ねる暮らし、
私のような新米とは重みがチガウ。
それこそ、宝であり命そのもの。
放射能をあびた農地や作物、
あるいは「風評」により商品価値のなくなったもの、
これらを金で「賠償」するのは当然だ。
精神的な苦痛にもそれは必要かもしれない。
しかし、
春に山菜を摘みに行く日、
あるいは渓流釣、きのこ狩り、
農山村の暮らしそのものに根付いた財産は、
商品ではないだけに「補償」の対象になりにくい。
だが、
このお金にならないものこそが、
だからこそ新の宝である。
お金の論理だけでいいはずはない。
(いしだのおじさん)