第12回 私と寺家、寺家と私
2009.8.23いしだのおじさんの田園都市生活
そのころの私の職場は港の見える丘公園の近く。
青葉区(まだ分区以前で緑区)から往復50kmを鉄の馬に乗って通っていた。
鶴見川沿いの道、港北ニュータウン、第三京浜、市街地と抜けてたどり着く。
ヘルメットを脱いで顔を洗うと、手の中の水が黒い。
深夜の帰りは首都高で港と工場の灯りを背に流していく。
第三京浜を降りると、東方から田舎の香水が匂う。
そんな往き帰りをXLR250R(キックスタート)という馬で走った。
余計な話が長くなったが、ま、若くて元気だった、ということ。
到着しエンジンを切ると、職場は空と地面がとても小さかった。
そこで子どもたちと過ごした。
子どもとのつきあいは、そこだけ切り取れば、いつでも楽しい。
が、
子どもたちの顔を見ながら、空と地面の欠乏を感じていた。
そんな私が、時間ができると足を運んでいたのが寺家だ。
出勤とは逆方向に自転車で川を遡る。
空と地面の欠乏を癒すために寺家に通ったのか、
寺家に通っていたから余計に空と地面の欠乏を感じたのか、
今となってはよく分からない。
寺家では、歩き回りながら田んぼや池や水路をのぞき見たりしていた。
草花や虫や鳥の名を知るでもなく、一人で過ごした。
雑木林の中ではときにはジョグで汗を流していた。
そのなかで、いつも必ず行く場所があった。
谷戸の奥のそのまた奥に偶然見つけた棚田。
寺家を訪れる人たちでもここを知るのはおそらく数%ではないか。
約20年ぶりに写真を探し当てたので紹介する。
85年~87年ごろに撮ったものだろう。
私はこの風景をとても美しいと感じながらそこに身をおいていた。
そのときのその感覚は何だったのだろう。
今思い返しても、それを実感のあることばにするのは困難だ。
一人静かに過ごす時間の解放感もあったのかもしれない。
この写真を撮ったときの私はまだ農を体験していない。
そんな私が感じた美。
米作りを具体的に知る前。
いや、まさか、いずれ自分が米作りをするなどと思ってもいないころだ。
だが、この田を作り守ってきた人を尊敬し畏怖するような感覚はあった。
人が生きるために働いたからこの造形はあるのだろうと思い、そこに美を感じたのだろう。
吉武の推薦で広報誌『横濱』(秋号)に寺家の紹介を書いた。
(そこには、当然ながら、「私」個人の体験や情感は書いていない。
しかし、書きなが思っていたのは、個人的なこと「私と寺家」だった)
今年から、グリーンは寺家の田んぼを耕作している。
寺家の西の奥の棚田に感動してから20年以上が経っている。
グリーンが耕作している田んぼはこの棚田のずっと下流の寺家のいちばん東。
今回、「紹介」を書いたことで、あらためてこの二つがつながっていることを思った。
寺家で美しい田んぼを発見した私は空と地面が小さい学校をやめた。
地元の子どもたちと過ごす日常となった。
そこでの子どもたちとのプログラムも建物の中とアスファルトの上だった。
だが、休日には子どもたちと山登りをした。
そこで自然が子どもを育ててくれることを体感できた。
子ども時代に山登りで心身を鍛えた彼らの働く場も自然の中に求めるようになった。
そして、いろんな出会いがあり「みんなで米作りを」と提案した。
そう、ハイキングで子どもたちと寺家を歩いたこともあった。
自身の体力づくりで寺家を走っていたこともあった。
そういったことが今につながっているのかもしれない。
今回の紹介の文章に、こう書いた。
「寺家町は、都市農業の振興と、農が育んできた里山の豊かさや文化を再認識できる場として、横浜の「ふるさと村」に指定された。それは、市民が懐かしい風景に身をおいて「非日常」を感じるだけでなく、里山を「日常」に活かす試みだ。ここでの体験から、自家菜園や味噌作りを暮らしに定着させる方も多いと聞く。「田園景観」が「保全」されていることの意味の一つはそこにあるように思える。」
まさに、私が今、「日常」として農を実践しているのは、寺家があったから・・・
(逆説的に言えば、寺家しかなかったから)
そういう意味で、この「紹介」の文章の中にも私はいる。
久しぶりに寺家の奥の棚田を訪ねてみた。
数年前から作付けされなくなっていたことは知っていた。
それでも、そのときは草を刈って手入れはされていた。
今回、訪ねてみたら・・・