第44回 釜飯仲間・おこげのお話
2012.7.1神奈川・緑の劇場
《紫陽花革命》
2012年6月29日金曜日の夕刻、首相官邸を15万人とも20万人とも言われる人々が取り囲んだ。
5月5日に日本の全ての原発が停止した。その原発再稼働に反対し、大飯原発再稼働決定の撤回を野田政権に求める毎週金曜日の行動は、最初は3月に300人ほどで始まった。週を追うごとに人の波は膨れ上がり、6月22日には4万5千人を数えたが、ほとんどのメディアは、取材には来ても報道することはなかった。
だが、ついに、29日夜から30日にかけて、扱いに大きな差こそあれ報道されるにいたった。(大手1社は、新聞、テレビとも、いまだ報道せずらしいが『はまどま』で聴いていた、朝の”エフエムヨコハマニュース”は報道した。)
首相官邸前だけではない。全国各地で様々な集会、パレードが開かれている。海外のマスコミも注目している。【紫陽花革命】と言われるようになった。
7月1日㈰『原発やめろデモ』(新宿)、16日(祝)『さようなら原発10万人集会』(代々木公園)、29日㈰『脱原発国会大包囲』で国会議事堂を取り囲む計画だ。
さて、早朝の蒔田公園。ぐるっと取り囲んでNHKのラジオ体操をする人は何人いるのだろう?夏になって参加する人の数は格段に増えた。200人、いや300人はいるかもしれない。(日本中で、普段のラジオ体操に一番大勢集まっているところはどこだろう?なんて思ったりする。)
いつも、ラジオを持ってきて下さる人がいて、みな、なんとなく同じ場所で、いつもの顔なじみの皆さんと朝の挨拶を交わして6時半を待つ。6時半になっても、最初は”ラジオ体操の歌”だから、その間に急ぎ足で駆けつける人が加わる。
平日は、体操する人々に目もくれず、公園を突き抜けて京急南太田駅に急ぐ通勤の人は、服装も、歩くリズムも当然ながら違っている。
土曜ともなると最近は少年野球チームが公園に集合し、父兄の車、何台もに分乗して出発する。給水タンクを車に積んでいる若い母親の表情は、試合をする子どもたちよりも凛として清々しくさえある。
そして、深呼吸で締めくくって体操が終わると、だれからともなく拍手が起きて回りの人と会釈を交わし、それぞれの1日が始まる。
すっかり歩行が困難になって、体操はできなくても、補助車を使って朝の散歩をされているご婦人は”野菜市”仲間。もう一人、彼女のために野菜を選び、運ぶのを支えるご婦人と二人、よく町角で御顔を合わせるので、ご一緒して”散歩”する。今朝もお散歩しながら昔話を伺った。
東京・深川で、空襲を受けたという。深川がやられたのは、3月10日だったか、5月の空襲だったか?今度、聞いておこう。8人兄弟姉妹の4人が、この空襲で亡くなった。
父母も行方知れずになったが、そののち、茨城に疎開していたところ、傷だらけの父母が迎えにきてくれたという。
子どもたちが教え込まされ信じていた「欲しがりません、勝つまでは!」「一億玉砕!」”わずか”67年前の話だ。
だが、そのころ、海軍省では、将校と高等女学校から徴用されて働いていた少女たちが「アロハオエ」を歌っていたという。一方で”敵国語”を使うことを禁止していながら。
広島に原爆が投下された時、当時、広島日赤病院の外科部長だったH氏は通勤途中の橋の上で被爆、自転車ごと吹き飛ばされた。八月十五日で除隊となった甥が二人、山口の家に帰る途中、叔父の被爆を聞いて支援に広島に入り、おびただしい遺体の処理などにあたった。
甥たちはその後”入市被爆”の影響が出ることもなかったが、叔父は、原爆症に苦しみ、特に夏になるとしばしば身をソファに横たえながら、横浜日赤病院の院長を務め、八十余年の生涯を終えられた。
晩年、広島・長崎の被爆体験の手記で構成した、朗読劇『この子たちの夏』(地人会)の上演が横浜で最初に催された時、女優さんたちとの交流会に参加し「原子力の平和利用の道を閉ざしてはならない」と挨拶され、一瞬、場の空気が停滞した。御高齢であったためにか、特に異論を唱える人はいなかったし、当時、被爆医師のことばには簡単には反論もできなかった。
戦争体験世代は御高齢となった。私が子どもだったころ、「なぜ戦争をしたの?」「なぜ戦争に反対できなかったの?」と親に問うたが、ちゃんとした答えをもらった記憶はない。それどころか、聞いてはならないこと、のようにさえ思うようになった。戦争中の話は、あまり話したがらなかったかな、と思う。まあ、こちらのインタビュー能力もいいかげんだったか、とも思う。
子どもたち、孫たち、さらに未来の子どもたちに、「あれだけの大事故を起こしながら、なぜ原発を止めなかったの?なぜ反対しなかったの?」と問われるかもしれないのは私たちの世代だ。
横浜では、以前と変わらないかのような朝の風景が続いている。同じ時、同じ日本で、高濃度放射線汚染から『疎開』もさせてもらえない子どもたちの暮らしがある。家族が分断させられた避難の暮らしがある。東日本大震災後の被災地の人々、福島第一原発での収束作業に従事されている人々・・・・。
私たちが知らなければならないこと、無関心であってはならないことは数限りない。
海軍省で将校とアロハオエを歌っていたのは、私の母で、被爆直後の広島に入市した甥の一人は父である。
(おもろ童子2012.6.30)