第40回 釜飯仲間・おこげのお話
2012.2.28神奈川・緑の劇場
2011年3月11日は、金曜日でした。午後2時46分・・・。
きっと、あの日のこと、あの時のことは、横浜にいた私たちも忘れないでしょう。そして、12日の原発事故。私たちは忘れてはならない。忘れません。
「はまどま」は、大和ビルの一階にあります。横浜市南区宿町2-40の大和ビルは、築50年を超えた「歴史的建造物」と言っても過言ではないように思います。
1945年5月29日の横浜大空襲で宿町一帯も焼け野原になりました。歩いて20分ほどで伊勢佐木町の一角にたどりつきますが、戦後、そのあたりは、米軍に接収され飛行場がつくられました。宿町にも米兵の宿舎が立ち並び、その形状から”かまぼこ兵舎”と言われていました。
やがて、接収解除され、いち早く建築されたのが「大和ビル」でした。当時を知る町内会長は、子どものころを過ごし、「唯一、見上げるような巨大な高層ビルだった。」といいます。一階が店舗や事業所、二階から五階が居室という構造は、画期的でした。また、多くの男性の命が戦争で失われた時代、一人で戦後を生きていく女性たちのためのアパートだったとも聞いています。ビルの東西を貫くかたちで通路があり商店街を構成していました。「はまどま」がある場所は、建設当時は通路でした。ビルの創業者、先代オーナーには、特別な気持ちがあったらしく、そこに『カフェ』をしつらえたのが、今の「はまどま」です。外壁や内装の一部に『カフェ』のなごりを見ることができます。
2001年。この大和ビル119号室に、NORAは事務所を開きました。
やがて、NORAのある大和ビルに、引き寄せられるようにNORA仲間たちが転居してきました。あるいは、大和ビルに越してきたためにNORAと出会い、仲間になりました。
彼ら彼女ら、若者たちは、横浜港の花火を、夏の風を受けながらビルの上から一緒に眺めたり、「大和ビルまつり」と称して、仲間の一室に集まり食べ物・飲み物を持ち寄って、楽しく夜を過ごしました。今思えば、まるで花火のような一瞬、大和ビルとともに命を輝やかせた日々だったのかもしれません。
やがて、それぞれに飛躍し、ひとり、またひとり、大和ビルをあとにしていきました。昨年から今年にかけて、大和ビルを旅立った仲間たちから嬉しい知らせが続きました。Tちゃんには女の子、Yちゃんには男の子が生まれました。
そして、2月18日土曜日、昨年結ばれた、KちゃんとパートナーのSさんを囲み「Sさん!よろしく!」という会を「はまどま」で催しました。
『大和ビルまつり』のメンバーが帰ってきました。手づくりで、ささやかで、でも、暖かくて、余興に大笑いし、遠方から戻ってくることができなかった仲間からの手紙に涙して。手紙をもとに作った歌に涙して。みんなの笑顔を見て、また涙して。
“いつか人々が集い笑顔で過ごす場をつくりたい”
大和ビルの先代オーナーの中に、そんな思いがきっとあったから、『カフェ』をしつらえたのではないか、と思うのです。その思いは、NORAを設立したときに、”みんなが集う場に!”と願って119号室を事務所としたことに、運命的に、引き継がれているのではないか。
「場」とか「部屋」というものの不思議な力を思います。長い年月を経た「場」には、その「場」に集った人々の思いがしみ込んでいるような、一種の力を感じるのです。「場」は、使えば使うほど、その力が引き出されてくるようにも感じます。
できることならば、ひとりひとりの人生で、忘れられない、嬉しい、楽しい一こまが「はまどま」で繰り広げられるますように、と願います。嬉しい、楽しい力が「はまどま」に宿りますように!
いえ、欲張りません。ささやかに、手づくりで。
【おもろ童子】