第35回 釜飯仲間・おこげのお話
2011.9.30神奈川・緑の劇場
「世の中」には、絶対に必要とされるものと、無くても困らない、無くなっても仕方がないと思われてしまうものがある。私にとって、金沢区の海は失いたくないものだったが埋め立てられてしまうことを諦めなければならなかったし、富岡町から尾根づたいにたどれば、今も残る鎌倉天園への道と合流できた丘陵は、地上から消えてしまった。今となっては当時を知るわずかな人々の思い出の中にあるのみだ。社会的な損失に思われたものが、時代の変遷は、破壊を肯定することを当然にしてしまう。宮が瀬ダムのダムサイトに近く、かつての渓谷の美しさや、石小屋の巨岩を記憶する人もすでに少数派だろう。
ここで言う「世の中」とは、日本の、あるいは横浜の、という限定がいるかもしれない。津軽三味線のない津軽や、サンシンのない沖縄は考えられないが、三味線を必要とする横浜市民はどれほどいるのだろう?
だが、”音楽は?”となれば話は違ってくる。私たち人間は、きっと原始の時代から、生きるために”ことば”と”音楽”を必要とし、心身すべてをもって”舞踊”表現を生み出してきた。祈りであり、喜怒哀楽であり、愛情表現であり、感謝を表すためにも必要とされただろう。
肉体の命を保つために、なにより不可欠なものは、汚染されていない水と空気と食べ物だったが、今や当たり前には手に入らなくなってしまった。また、私たちは、心でも生きている。生きた心を保つために、”ことば”があり、”音楽”があり、”舞踊”がある。”表現”がある。こちらのほうは、私たちの日常から奪い取られ、「商品」になってあてがわれても、たいして不自由とも思わず、貧困な日常に気づけなくなってしまったのかもしれない。
さて、釜飯仲間が集う「はまどま」は必要だろうか?
横浜市南区の区政推進課は、「はまどま」の機能を活かし、地域の市民活動の発展のために税金で支援する価値はないと判断した。助成金申請を受け取りもしなかったのだ。事前に何度も担当者の意見を受け入れ申請書の修正、補足を繰り返したにもかかわらずだ。もともと、南区に補助してもらうつもりで「はまどま」を運営しているわけではない。今年から始まった新しい制度を活かすために申請して欲しい様子だから付き合ったのだが、南区に対して生まれた不信感は簡単にはぬぐえない。そして、どんな活動に対して税金で支援をすることを良しとしたのか、報告会は検証しなければならない。
我々は、身の丈にあったできることを、自主的に進めるだけのことだ。
【8月28日、日曜日・朗読の夕べ4回目】
大人12名、子ども2名。初めての出会いで、ともに夕食を囲み、朗読や絵本の読み聞かせを楽しむ。
【9月1日、木曜日・神奈川野菜の食事会58回目】
・酪農生産者・農産物流通担当者・編集者・印刷営業・シンガーソングライター・宇宙開発関係・保育士・イラストレーター・子どもたち・・・。多彩な参加者、初めての出会い、いつもの野菜尽くしも、いつもの一期一会。子ども2名、大人18名
【9月17日、土曜日・セルフケアー、薬草酒の飲み比べ】
岐阜県から生産者を招く。賑やかに薬草酒をいただき、神奈川野菜を使ったたくさんの料理に舌鼓を打つ。夜は日枝神社の御神輿をみんなで見に行く。荘厳な夜の風景に一同、時を忘れる。この夜も初めての出会い、7名。
【9月18日、日曜日・浜っ娘音頭感謝祭】
“浜っ娘音頭保存会”子ども4名、大人8名。
持ち寄りの夕食・酒の肴で浜っ娘音頭を踊る。またまた初めての出会い。
【9月21日、水曜日・台風15号最接近は午後6時ごろ、浜松上陸は午後2時】
(※竹細工は9月10日土曜日が教室で7名・24日土曜日が自主作業日で3名)
練習した浜っ娘音頭は、9月24日、土曜日、東京・王子の飛鳥山公園、野外舞台で、日本の民謡・民舞保存会「あすか会」の例会に大人4名、子ども4名で初めて参加し、披露させていただいた。
【9月29日の報道】
横浜市は、10月から344校ある市立小学校の学校給食を、毎日1校、翌日使う食材すべて(平均14品目)放射性物質の検査をするという。いままでは、毎日1品目のみの検査で、「”保護者による”署名などで、検査体制の拡充を求める要望に応えたもの」との報道。
子どもの命、健康を守ろうとするのは、保護者だけではないし、保護者だけであってはならないだろう。一部の保護者が特に神経質になっているかのような印象を与える報道は疑問だ。
少しずつ、「はまどま」にやってくる子どもたちが増えている。子どもたちを見守る母親のまなざしは美しい。慈愛に満ちた笑顔を秋色の日差しが映し出す。感動を覚える。
私たちの時代の少し前まで、人々は子どもを育て家族を守るために働き、生きることに必死だったのではないだろうか?いや、現代だって、日本以外の多くの国々では、きっとそうに違いない。
そういえば、”もったいない”を世界のことばに広げてくれた、マータイさんが亡くなったという。初めて日本に来たマータイさんと、握手しようとして腕を掴んでしまったことがある。思いがけなく細い、けっしてたくましくはない腕だった。
何よりも大切なもの、生きるために必要なものの優先順位を私たちは間違えていないだろうか?経済力があれば何でもできると錯覚し、経済力を高め軍事力を維持することが何より不可欠で、そのために原発も必要なのだと思いこまされて、本当に必要なもの大切なものを私たちは失おうとしてはいないだろうか?
「はまどま」は、「はまどま」としての機能を失うことがあっても仕方がない、それは、絶対に必要とされるものではないのだから。それでも、「はまどま」を機能させてきたから、私たちは、人間が生きるために大切にしなければならないものについて考えることができたし、同じように考え続けている仲間と出会うことができた。
子どもたちの命を守るためにできることを。母親を孤独にせず支える社会を。
《おもろ童子》