第9話 雑木林のせせらぎ

2024.12.29
わけ入れど谷戸はなお深く

雑木の林から水音が聞こえてくる。小川のせせらぎの音だ。それに気づいたのはこの場所に住みはじめて数年経った頃。でもあたりはなだらかな傾斜地で、そんなところに水の流れはない。僕は首をひねる。
あまり考えたくはないが地すべりの予兆とか。でも市のハザードマップに記載はなかったし、ところどころに残るひと抱えもある切り株は、ながい時間この辺の地面が安定していたことを語る。そもそもその水音は地中から響く様なくぐもったものではない。大勢の幼い子供たちがすぐにけらけら笑い合うような明るいさざめきだ。

ここは島でいちばん高い山のふもとで、もとは針葉樹の伐採跡地だった。いま、我が家のまわりはまだ若いありとあらゆる樹木が競うように繁っている。その奥からときおり水音が聞こえてくる。もしかして木々の葉脈を流れる水の音が唱和してるのであろうか。うむ、詩ならともかくとして現実的ではないな。

今年になって別の場所でおなじ水音を聞いた。そこは牛の放牧場だった。周囲は分け入る人もいなくなった広葉樹の森林である。そのさざめきは電気牧柵のむこう、大径のコナラやミズナラの重なりあう彼方から聞こえてきた。その時、ふいに浮かんだ木の名があった。ヤマナラシ。
風が吹くたびに葉っぱがいっせいに、まるで手を振るようにひらひら揺れる姿は知っていた。愛嬌のある木だと思っていた。そうだ、ヤマナラシは「山鳴らし」だった。ようやくそこに思い至った。

帰宅するとさっそく、中川重年著『日本の樹木』を手にとる。この図鑑は植物としての解説にとどまらず、材の利用法や全国各地での呼び名の紹介など、それぞれの木と人の関わりまでを教えてくれる。いかにもあの著者らしい。「ヤマナラシ [山鳴] ヤナギ科」 「葉は互生し、丸く、やや硬い。葉柄が長いため、わずかの風であおられても、パラパラと音がする」。そう説明されていた。
ためしに家の近くのヤマナラシの傍らに立つ。葉っぱたちが手を振って迎えてくれた。ただし音は聞こえない。

ふたたび『日本の樹木』をめくる。がっしり太い幹とそれを覆うようにぎっしり葉が生い茂った写真をあらためて見る。「落葉の高木で、高さ15m」とある。さっきのヤマナラシはひょろりと細い若木だった。
秋のおわりからの長雨にひきつづき、いま外は雪が降っている。この冬をこえやがて新緑も深まるころ、またあのせせらぎの水音が聞こえるだろう。その源にはきっと大きなヤマナラシの木があり、幼い子供のように手を振りながら佇んでいる。

佐渡島在住  十文字 修

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