第10話 碩学は何を悟ったのか

2025.2.28
わけ入れど谷戸はなお深く

戦後の高度経済成長がスタートした時期に、この国の農業の大方針を定めた法律が生まれた。「農業基本法」である。1961年(昭和36)にできたこの法律は、東畑精一(以下敬称略)という農業経済学の大家が中心となって作られた。

ところが、この農業基本法ができて早くも数年後、東畑は自分のうかつさに気づく。「他を責める要はない、自分の頭が問題なのだ。そう気づくと自己嫌悪、敗残兵のように背骨が抜けていくように思った」。農業基本法を生み出した農政審議会の議長も任期途中で辞めてしまった。それ以来、長らく農業問題を扱う気力も気概もなくしたと述懐している。※1

吉田茂から農林大臣就任を懇請されたり、アメリカやドイツで長く学究生活を送り、日本の農業経済学の泰斗としてのちに文化勲章を受けるこの碩学は、自らの手がけた農業基本法のどこに欠陥を見出したのだろう。

第一の後悔

ちなみに僕が農業基本法に興味を持った理由は、いま住む佐渡をはじめ全国の地方、特に農山漁村が見舞われている人口減少の渦中にいるからだ。二十数年前、横浜から佐渡に移り住んだ当時、七万人台だった島民数はいま四万人台である。しかも減少スピードは加速している。村はみるみる空き家だらけになった。

佐渡市の産業別就業者数の推移を見ると、農業を中心とする第一次産業従事者の激減が目を引く。他も減ってはいるが一次産業ほど激しくない。ただしこれを見た人が「農業の衰退」という解釈のみで終わるようなら、もう少し解説しなければならない。

僕と家族が移住した当時、大げさにいえば佐渡じゅうの田んぼが圃場整備大工事の真っ只中だった。何枚もの田んぼが広大な長方形の一枚の田んぼに造り変えられ、直線のコンクリート水路が縦横に走る。こうすれば機械の大型化と相まって、同じ収穫量を得るのにかかる人手は少なくて済む。

「農業の遂行にもっともっと『経営規模の拡大の経済』を導入したい」※2 農業基本法の目的のひとつはそこにあった。大規模化、機械化が進めば当然農業の就業者数は減る。あまった人手は都会の労働市場に身を投じることになる。この法律は都会からのPull に対応して村からのPushを促した。

では東畑はいったい何に後悔したのか。それは基本法のスタート時点においては、規模の拡大が思い描いた通りには進まなかったから。全国的な地価の高騰で小規模農家が農地を資産と見なして手放さず、代わりに兼業化へと進み、大規模農家への集約化が進まなかった。それは彼にとり想定外だった。

しかしこれは、いわば農業基本法の初動期での不具合であり、その時点での反省であった。基本法の趣旨や目的そのものについての気づきではなかった。

第二の後悔

この東畑の「第一の後悔」は、高度経済成長の初期になされたものである。ところがそれから20年近く経過した1981年(昭和56)、あるパーティでのスピーチで彼はこう述べている。

「経済の高度経済成長の過程で、農村の環境が大きく変わった。私は農業基本政策の相談に預かってきたが、私の考え方に誤りがあった。それは私の学問に生活の観点が欠けていたことである。これは学者としての私の不明といたすところで、今後私は筆を折らねばならない」。これ以上具体的に言及することなく ※3、その二年後に彼はこの世を去った。

「農村の環境」そして「生活の観点」とは。ここに最初の後悔とは様相の異なる、高度経済成長の時代をくぐりぬけての思索の深まりを僕は感じる。その結果、学者が「筆を折る」とは。これはもう後悔をこえた懺悔ではないか。

東畑は三重県伊勢の農村出身である。「わたしはこのような伊勢に生まれ、伊勢に育った。そこの農産物を食い、そこの風土に包まれ、そこの人間の社会で育った」※4

その人が学問で名を成し、国の政策の根幹にかかわり、それがもたらした全国の農村の変化を目の当たりにした。ならばそこで悟ったことを、すなわち農業基本法を軸にした農政によって私たちが得たもの、失ったものを、その生涯の総体を注ぎ込んだ言葉で、筆を持ちなおして最後に発してほしかった。

農業基本法は1999年に廃止され、「食料・農業・農村基本法」に引き継がれた。昨年改正も行われている。しかし食料、農業、農村といういずれも大切この上ないものの今後を、政治や官僚、権威にお任せしてよいということはない。

佐渡島在住  十文字 修

※1『私の履歴書 文化人20』日本経済新聞社 P.262
※2『私の履歴書 文化人20』前出 P.261
※3『農協』石見 尚 日本経済評論社 P.229
※4『私の履歴書 文化人20』前出 P.183

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