第8話 重年さん、ゴジラってクヌギですよね
2024.11.28わけ入れど谷戸はなお深く
中川重年さんを偲ぶ会が12月8日に催されるという。
偲ぶ会が持たれることをNORA松村さんのFBで知ったのが9月。それならばと、長年気になっていたある課題に急遽取り組むことにした。それから三か月のあいだに幾らかの調べものを行った。
結果、偲ぶ会で僕は重年さんにこのように問いかけたいと思っている。「1954年のゴジラって、クヌギですよね?」
今年7月に亡くなった中川重年さんの業績は、ここで詳しく説明するまでもない。
僕が初めてお会いしたのはたしか1985年。横浜市の舞岡公園予定地の谷戸を、よこはまかわを考える会の森清和氏と三人で歩いた時だった。その後の公園づくりの取り組みを通じて、また小田原で木工ろくろを練習していた頃、そして木質バイオマス利用の可能性追求の時期、それらの分野いずれでも僕のたどる道の前方に先達としていつもあった。研究者・実践家としての重年さんの姿が。
ゴジラはクヌギですよね? そう問われて彼はどういう顔をするだろう。果たしてこの突拍子もない問いは、里山と雑木林の碩学・中川重年を呆れさせることになるか。いや、たぶんあのいたずらっぽい眼で僕を見返し、ヒゲの面差しに意味ありげな笑いをニンマリと浮かべるだろう。たぶん彼も初代ゴジラを観ただろうから。
クヌギの印象
クヌギの樹皮はゴジラの体表に良く似ている。そう気づいたのは横浜から佐渡に移り住んでからだ。こちらに来て以来、風呂は薪焚きであり冬には薪ストーブを使う。住まいのまわりは広葉樹に囲まれている。横浜・舞岡時代にも増して、暮らしの中でさまざまな木の表情に接することになった。
通常、雑木林の代表的樹種はクヌギ・コナラと言われる。この二つは見かけも良く似ている。ただしクヌギの方が木肌のゴツゴツ感がキメ細かい。コナラの方が樹皮の裂け筋が線状に縦に長くつながる。全体的な印象としてはクヌギの方が見た目、動物的なやわらかさを感じさせる。
わが家周辺にはクヌギが多い。萌芽更新を重ねたごつい古株。灰褐色で鈍い光沢のある薪。いずれも見れば見るほどゴジラである。ただしそれはあくまで1954年(昭29)公開の初代であり、例えば最新作の「ゴジラ-1.0」などではだいぶ風合いが変っているが。
クヌギとゴジラをつなぐ三つの地域
調べものに着手してまだ三か月の現時点で、つぎの三つの地域が指し示す交点にゴジラとクヌギをつなぐ鍵がうっすらと視えている。そのあらましを以下に述べさせていただく。
1.九州・大分
ゴジラの造形を担当したのはどういう人物だったのか。当然そこから調べ始めた。現実にも架空でも存在しなかった巨大生物を創造するにあたり、クヌギをその手がかりにする人とは。もしかして炭焼き職人を身内に持つ人では。まずそんな風に空想した。
まもなく初代ゴジラの造形を担当したのは利光泰三という人であることが判った。大分出身とのこと。なんと大分とは。木炭じゃなくホダ木だったか!
大分県がシイタケ産地として有名なのは知っていた。あらためて調べてみると乾シイタケの生産量は全国一であること、クヌギを原木とする栽培が中心で、明治以来クヌギの植林を進めてきたこと、結果クヌギ林は県内森林面積の12%を占め、クヌギの蓄積量は全国一で国内総量の22%であること等々が判った。大分はクヌギの宝庫であった。
利光氏は高校卒業後大分を離れたが、少年時代の原風景としてクヌギが身近な存在であったことは想像に難くない。
2.福島・須賀川
初代ゴジラの造形を担当した利光(以下敬称略)にとって、直接の上司は円谷英二氏である。ゴジラの外皮があの形状に行き着くまでは「円谷さんとか、みんなで考えたんだと思います」『初代ゴジラ研究読本』洋泉社より
利光は芸術家肌だが、おとなしい人でもあり周囲の意見を取り入れるタイプだったとのこと。だとすると特撮監督である円谷(以下敬称略)の見方は、ひときわ影響力があったと思われる。
円谷英二は明治34年に福島県須賀川市(当時は須賀川町)で生まれ、大正5年に上京するまでそこで過ごした。生家は麹味噌醸造業であった。麹づくりでは米を蒸す。味噌づくりでは大豆を煮る。麹・味噌づくりに用いられた燃料は薪であったと考えられる。
当時の須賀川は薪炭の生産が盛んだった。「明治から大正・昭和にかけての薪炭を燃料とした時代は、薪や木炭の生産地として名高く~以下略」『郷土 須賀川』須賀川市教育委員会 より。
生家の軒先にうず高く積まれた薪を見ながら彼は育った。戦後の拡大造林が始まる以前の時代、その薪の樹種はクヌギやコナラであった可能性が高い。
3.東京・成城
ゴジラの造形は東京・世田谷区の成城にある東宝撮影所内で取り組まれた。当時、撮影所の隣接には元皇室御料林の緑地が広がっていた。あたりにはいわゆる武蔵野の雑木林が普通に見られた。
ちなみに撮影所にほど近く、現在、保全活用されている「成城三丁目緑地」の植生としては「樹林地の高木は主にクヌギ・コナラ等の落葉広葉樹や~以下略」とのこと。(『世田谷区立成城三丁目緑地における管理の現状と土壌性状の研究』坂口豪 より)
世田谷区内では昭和20年代まで炭焼きが行われていた。ゴジラの造形を構想するにあたり、薪炭林として利用されてきたクヌギを、具体的イメージの見本にしやすい環境があったといえる。
初代ゴジラ造形のいきさつ
ゴジラの体表のデザインはすんなり決まったわけではない。ウロコ状、次いでイボ状と試みるも「恐ろしさが足りない」と周囲に言われ、利光は頭を抱え込んだという。そこから先の展開を僕はつぎの様に思い描く。
撮影所近辺を気晴らしに散歩していた利光は、ふと雑木林の樹木に目をとめる。それがクヌギであることに大分出身の彼はすぐに気づく。と同時に子どもの頃に親しんだそのゴツゴツの木肌にひらめくものがあった。
「クヌギはどうでしょうか」早速、円谷にそう提案する。円谷は遠い日に見た薪の山を思い浮かべ、なるほどと膝を打つ。さらに利光は円谷やその他のスタッフを撮影所近くの雑木林に連れていき、クヌギの樹皮を実際に見せる。皆の賛同を得るとすぐに見本として、玉切りにされたクヌギが撮影所内の造形作業室に運びこまれる・・・。
ところで初代ゴジラの体表は「ワニ肌」と表現されることが多い。しかしワニ肌はゴジラの外皮にあまり似てないと僕は思う。ではクヌギは何故ワニに入れ替わったのか。そのいきさつも仮説を描くことができるのだが、長くなるのでここでは省かせていただく。
ゴジラの向こうに里山を見る
三つの地域の交点にあのゴジラの姿は生まれた。でも僕はそれを稀有な偶然とは思わない。初代ゴジラが生まれた1954年、昭和29年当時の日本や日本人の生活から三点を無作為に抽出すれば、いずれも多かれ少なかれクヌギと関連を持つものだろう。それほどクヌギは日本人にとって馴染みの深い木であった。
映画「ゴジラ」は大ヒットとなった。観客の多くはゴジラの風貌に、無意識にせよ真っ赤に燃える薪炭のエネルギー、あるいは子どもの頃カブトムシ獲りに夢中になった思い出を重ね合わせたのかもしれない。
中川重年さんを偲ぶ会は盛況になるだろう。僕は談笑する参加者達の頭上のどこかに向かって、ゴジラはクヌギですよねと問いかけることにする。
佐渡島在住 十文字 修
<おもな参考資料>※前出をのぞく
大分県椎茸農業協同組合サイト
大分県サイト
サライ.jp サイト
『ゴジラ誕生物語』山口 理
須賀川市中央図書館からのレファレンス回答
世田谷区立砧図書館からのレファレンス回答