水の流れは絶えずして

第七話 よこはま ため池事情

2014.4.1
水の流れは絶えずして

いままでのコラムで横浜土地の成り立ちや、谷戸にみられる湧水、地下水などお話をさせていただきましたが、水資源という視点で見ると、どのようにとらえることができるのでしょうか。

横浜は日本の近代水道の発祥の地とも言われていますが、横浜市水道局のホームページで水道ができた経緯をみると

「横浜市の水道はわが国最初の近代水道として、明治20年(1887)10月17日に給水が開始されました。戸数わずか87戸ほどの一寒村であった横浜の人口は日増しに増加し市街は急激に発展しました。当時住民は水を求めて井戸を掘りましたが、横浜は海を埋め立てて拡張してきたので良質な水に恵まれず、ほとんどの井戸水は塩分を含み、飲み水には適しませんでした。
このため、神奈川県知事は英国人技師H.S.パーマー氏を顧問として、相模川の上流に水源を求め、明治18年(1885)近代水道の建設に着手し、明治20年(1887)9月に完成しました。」
と解説しています。

この解説から、都市化による人口増加にたえられるほど水資源(表流水・地下水)が豊富でなかったことが明治時代に認識されていたことが読み取れますが、農業に対してはどうだったのでしょうか。

第一話で、横浜市内には谷戸が3700以上あり、そこからはこんこんと湧き水が湧いていることをお話としました。確かに源流の数では、谷戸のまちといえますが、水量的には必ずしも十分ではなかったようです。かつて横浜市環境科学研究所に勤めていたときに行った調査で、市内の谷戸には明治初期に139もの農業用ため池があったことがわかりました(図-1)。つまり、四国や中京地方に溜め池が多いのと同様に、湧水だけでは水量が十分ではいため、ため池に水を蓄え夏の渇水期の備えていたと考えられます。

M14池分布図

明治14年頃のため池の分布 (横浜型エコシティ研究 横浜市環境科学研究所 2002)

これらのため池の大部分は、残念ながら埋めたてられて宅地や道路となってしまいました。一方で、公園の池として保全・活用されているため池(三ツ池公園、菊名池公園など)もあり、また、栄区の瀬上池、鶴見区の二ツ池、青葉区寺家の狢池など昔の姿を残している池も残っています。

これらのため池は、横浜の谷戸の文化を伝える施設として、大切にしていきたいですね。

水の流れは絶えずして