水の流れは絶えずして

第四十九話 公害時代も終わりのころに

2020.9.1
水の流れは絶えずして

私が大学を卒業したのが、1986年、折しもハレー彗星が地球に大接近していた時期で、卒業旅行で訪れていた小笠原諸島の父島で、望遠鏡をのぞかせてもらい感動したことを思いました。
就職して5年間、民間企業で働いていたことは、前回書かせていただいたとおりですが、この1980年代後半は、振り返れば、チェルノブイリ原発事故(1986)、昭和天皇崩御、(1988)ベルリンの壁崩壊(1989)、湾岸戦争勃発、ソ連消滅(1991)など多くの出来事があったとともに、国内では、バブル景気(1987年~1991年)で国民の多くが浮かれていた時代でもあったと思います。
私自身は、仕事で地方に出張することが多かったこともあり、バブル景気をあまり感じていなかったのですが、それでも、給料は毎年あがり暇さえあれば四駆に乗ってダイビングやスキーやうつつを抜かしていたことは、バブルの恩恵だったのでしょうか。

さて環境問題に目を向けると、60年代から顕著化していた産業公害問題が一段落し、都市・生活型環境汚染問題へと移っていった時代であり、ウィーン条約(オゾン層保護)採択(1985)、気候変動に関する政府間パネル(IPCC)初会合が開催(1988)、地球温暖化対策に関する「ハーグ宣言」採択(1989)など、特に地球温暖化が世界的に注目され始めた時期でした。また、「ナイロビ宣言」採択(1982年)、環境と開発に関する世界委員会によって報告書「われら共通の未来(Our Common Future)」が発表され「持続可能な発展(Sustainable Development)」が提唱され(1988)地球規模での環境問題解決の必要性が表面化してきた時代だったといえます。

このような背景の中、バブル期終盤の1991年に横浜市役所に就職し、当時の公害対策局(現環境創造局)に配属されたことを契機に、本格的に環境問題に取り組むようになりました。
1990年代は、環境問題のグローバル化が進んだ時代であり、1992年に地球サミット(環境と開発に関する国際連合会議(リオ)が開催されたことで、「持続可能な開発」が人類の現在及び将来の基本的課題であることが社会適に認識されました。
横浜市も公害対策局から環境保全局に改組(91年6月)にされましたが、当時を振り返ると、産業公害の規制業務がまだ主流を占め、都市・生活型環境汚染問題に対応する業務が少しずつ増えてきた用に記憶しています。このため、騒音振動測定、地盤沈下や地下水位の環境監視、また、地下水くみ上げや工場排水などの規制指導や工場への立ち入り調査などが主な仕事でした。

地盤沈下のメカニズム 例

横浜駅西口 昭和40年代の開発時の地下工事を行った際に、地下水水位が低下し地盤が沈下した

産業公害への対応を経験した最後の世代なのかも知れません。

 

 

 

 

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