第75回 釜飯仲間・おこげのお話
2015.2.1神奈川・緑の劇場
NORAが、大和ビル(だいわビル)に事務所としての拠点をもうけて15年。中庭・駐車場で、「NORA野菜市」を毎週火曜日に催すようになって10年。会員活動の拠点「ままどま」として、多くの皆様をお迎えして様々な企画を催すようになって7年になりました。
この間、大和ビルディング株式会社の代表取締役として、さらにNORAの法人会員として、支え続けて下さった、馬場直樹氏が、かねて病気療養中のところ1月月23日、永眠されました。56歳でした。
大和ビルは、今年で築56年です。この年末年始に、蒔田地域では「昔カルタ」づくりに取り組みました。勝野真美さんが絵札・文字札作成の中心になり、色つけや仕上げの和紙で補強・箱の作成などに何人もの力を合わせて作ることができました。
その一つに、蒔田地域で最初にできたビルディングが大和ビルであることが描かれました。文案作成は、地域の歴史を子どもたちに伝えたい、との熱意をお持ちの坪崎氏です。
そこで、大和ビル物語として、暮れの一日、NORAサロンとして、直樹氏のお母様、齋藤その子氏に、建設前後のころのお話を伺う機会を設けることができました。
戦後70年。戦争を繰り返してはならない、戦争の体験者が少なくなる日本で、次の世代に伝えていかなければ、という動きも盛んになっていると思います。
大和ビルを建設した直樹氏のお父様は、「はまどま」のあるスペースをレストランにされて、直樹氏に経営を学ぶ場として任せたと伺いました。
「はまどま」の内装・外装に、当時の面影がしっかり残っています。
私は、建設時のオーナー、直樹氏のお父様が、人々が集う場として設けたスペースを月日をへて「はまどま」として活かさせていただけたことにご縁を感じています。
多くの仲間たちの輪が、次々と仲間の輪を広げていくNORAとNORA「はまどま」の活動の、根っこを支え、しっかり見つめて下さっていた馬場直樹氏。
こころより感謝を申し上げ、安らかな眠りをお祈り申し上げます。そして、直樹氏の思いの一端でも受け止めて、これからも微力を尽くしたいと思います。
この年末年始も、様々な出来事が「はまどま」と「はまどまの仲間たち」にありましたが、2月1日、午前5時過ぎ、イスラム国に拘束されたジャーナリスト、後藤健二さんが殺害された報道に接して、この稿を締めくくります。
私は、この世界には、戦争・戦闘行為をしたくてならない人々がいると思っています。
「戦争を始めるのは簡単だ。自分たちを攻めてくると国民を不安がらせ、戦争に反対するなんて相手を利する敵対行為だと国民を脅せばよい。」
国民同士が監視しあい、ののしり合い、敵対しあうように仕向ければ、いよいよ「死の商人」たちの思うつぼです。
戦争・戦闘行為が始まれば、莫大な利益を手にする連中は戦場には行きません。戦争・戦闘行為の準備、軍事予算の増大だけでも彼らは金儲けができます。
その金の、わずかなおこぼれで暮らしをたてなければならないように追い込まれていく人々。
私は、戦争・戦闘行為をのぞみません。そんな私には、しかし具体的に何ができるのか、知的な能力も、行動力を支える精神力も、あいにく鍛え損なって年月を重ねてしまいましたので、せめて、なるべく戦争・戦闘行為に、無意識でも協力しなくてよい場所に身を置きたいと思ってきました。
幼いころは、戦争を身近に感じることがいろいろありました。白衣に戦闘帽を被り、戦争で傷ついた体の人たち「傷痍軍人」が物乞いをする姿が横浜駅前でも見られ、自分も大人になったら戦争行くのだろうか、と不安になりした。
探検ごっこの行く先は、残された防空壕。
戦闘機の防空壕は、ひろげた翼ごと姿を隠すことができる形に山腹を掘られていました。
身近な生産者とともに、「地産地消」を進めることは、私にとっては「反戦運動」でもあるのです。
(2015年2月1日 おもろ童子)