101回 釜飯仲間・おこげのお話

2017.4.29
神奈川・緑の劇場

「はまどま」での出来事、「はまどま」に集う仲間たちの様子などを中心に日々を描けたらと思い綴ってきたコラムも101回目になりました。今回からは、少し趣きを変えてみようかと思っています。「神奈川野菜の食事会」も開催100回を超えました。諸事情もあって、思うような開催ができなくなっていましたが、5月から、心機一転、「生産者の心とともに季節を味わう神奈川野菜の食事会」として、あらためて第1回を開催したいと思います。

=神奈川の農業と食べ物のこと・生産者に寄り添って30年=

1954年生まれの私は、大企業の電気管理部門に電気技術者として勤める父と、江戸・東京暮らしが3代以上は続いていた母との間で生まれました。私たちの世代は、1964年の東京オリンピック開催を節目に大激変時代に育つのですが、それは、都会も田舎も、激変、ということでは同じだったと思います。

私の場合は、海が消え、山が無くなり、川に泡がたつ、それも激変の“一部”でしかなかったと思います。大工業地帯を転勤した父でしたので(単身赴任というものは当時は耳にしたこともなく)農業はもちろんのこと、「豊かな自然環境」にも縁薄く成人していきました。いま、神奈川の農産物の行商のようなことをさせていただいていると、生産者と思われることも少なくないのですが、農家・農業とは無縁でした。ご縁をいただいて神奈川の生産者と親しくなり、また彼らの魅力と神奈川農業の魅力から逃れられなくなり、今に至るのです。

近代、現代史を語る時に、いくつかの代表的な時代区分がありますが、おおむね1990年頃のバブル時代崩壊前後で大きく分けられるように思います。

1950年代から1980年代は、汚染と破壊の時代であり、廃棄と浪費の時代でした。これを、高度経済成長時代として、日本が世界第2位の経済大国となったと肯定的にとらえるのですが、その後は現在まで、失われた30年にまもなくなろうとしているわけです。

経済成長こそが優先される視点から見れば、失われたになるのです。が、この30年は、本物を見直そうと人々が努力し、人間が生きるために本当に大切なものは何かを考え、認められてきた30年に思えます。経済成長を追いかけることには馴染まなかった人々の、そして私の「夢」が、具体的な「目標」になり、ひとつひとつ「実現」してきた30年なのです。

「大都市に農地はいらない。」これが、30年前までの国の政策であり、社会の大勢でした。「神奈川に農地はいらない、だからお前たちなどいなくてもいいんだ。」と言われているようなもの。その時代に農業を天職として覚悟を決めて挑んだ当時の若き生産者たち。

約30年前、農薬を使わず、化学肥料も使わない農法に挑んだ若い生産者、Sさんと出会いました。彼の地域では、そのような農法を志す人はまだ少なく(その後、ある理由もあって、一気に広がりを見せるのですが)「雑草対策で頭がいたいのです。他の地域の皆さんはどうされているのでしょう?奥さんが・・ですか?草取りを?そんなこと、私の妻にさせたら出ていってしまいますよ・・。」(背の高い、魅力的な奥さんだった)

実際に、昨今ほどの猛暑・酷暑の夏ではなかったが、9月になると体調を崩す農家婦人をよく見聞きした。「雑草のタネを畑に残さないようにするんだ。」とはいうがそうなる前に体が続かない。先日の「日本農業新聞」に、簡便に畑の除草ができる道具を考案した生産者二名が紹介されていた。雑草対策・・雑草を除かない自然農法に挑む人々も現れているが、当面は骨の折れる仕事に違いない。

農薬を使う目的を大別すると、土壌消毒・殺虫・病気防除・そして除草だ。このうち、消費者が手伝える可能性があるのが除草、草取りだ。農薬は嫌だ、使わないで!と求めるからには、出来ることは応援したい。援農(体験)隊を組織したことも一度や二度ではない。猛暑の中、参加した消費者からの農産物へのクレームは、確かに減ったように思う。そうなるために「ことば」はいらなかった。生産者との絆を強くするきっかけとなり、消費者には生涯の思い出にさえなったに違いない。

後年、Sさんは収穫体験型の農園をひらき、Sさん不在の時には、奥さんがお客の対応をしている様子をみて、“きっと、奥さんは草取りもしているに違いない。”と思い、あの若き日の深刻にうつむいていたSさんを思い出してしまう。

Sさんは、今では地域を代表する安心・安全でおいしい作物の生産者として、大小の報道媒体に登場する。某生協のカタログに畑で素晴らしい笑顔を見せる写真が掲載されていた。思い出した。大根の表面にシミがつく病気が地域全体に蔓延したことがあった。

某生協から返品をくらい取引停止、やむなく切干大根を家族総出で作ったものを、訳を聴いて必死で販売させてもらったこともあった。全体からみればほんのわずかなものだったろうが、そんなことしか私にはできない。それは今も同じだ。

これらは、私が、1987年から2004年まで在籍した「(有)神奈川農畜産物供給センター」での話である。

大根の表面にシミがつく病気は地域に深刻な被害をもたらし大きな話題にもなった。(食べるのにはなんの問題もなかった。切干大根もうまかった。)そして、化学肥料と農薬偏重の農法から、有機質重視、農薬を減少させる農法へ、土を大切にする農法へと、地域が一気に舵をきったのだった。

(2017年4月24日記 おもろ童子)