第99回 斎藤幸平『人新世の「資本論」』

2020.12.31
雨の日も里山三昧

斎藤幸平『人新世の「資本論」』(2020年、集英社)

先日、年下の友人から「『人新世の「資本論』」読まれましたか?・・・
斎藤さんの書いていることは、松村さんが実践しようとされていることにも近いように思いました。」というメッセージをいただいた。

私は次のように返信した。

はい。面白く読みましたよ。
状況認識において、かなり近いと思いました。
齋藤さんの方が、今日の世界的な諸動向に詳しいので、学ぶところが多かったです。
感覚的に把握していることに対して、データによる裏付けが得られた部分が多くありました。

晩期マルクスの読み直しについては、齋藤さんの貢献が大きいのでしょうし、世界規模のプロジェクト自体は興味深いものでした。
しかし、当時マルクスが考えていたことは、今の視点から考えると特別なことではないでしょう。
マルクスを救い出すこと時代に関心はないので(そもそも、私はマルクスの資本主義分析に打たれたし、それは今でも変わらないので)、マルクスのエコロジー的な慧眼に対して、衝撃を受けることはなかったです。

一方、状況を改善するための実践に関しては、手段が異なると感じました。最近は、社会という単位よりも個人ベースで考える必要性を感じているからです。
私は、社会問題を捉えるときに、個人ではなく社会について考えようという立場でしたが、最近は、個人を通した社会について考えようという立場に変化してきたように思います。
これは、私たちの社会が個人化して、個人の利得をベースに社会について議論するようになっているので、そのこと自体をいったん認め、それを前提として考えないと、広がらないと思っているからです。
最終的な目標は、齋藤さんが描くところと近いはずですが、資本主義に社会主義をぶつけるのではなく、資本主義を内破していく先のオルタナティブを考えています。

人新世とは、Anthropoceneの訳で、「じんしんせい」あるいは「ひとしんせい」と読む。更新世の後、人類が地球の地質や生態系に重大な影響を与えるようになった地質時代を指す。人新世のうち特に第二次世界大戦後は、社会経済の規模や地球環境への影響が加速度的に増大しており、グレート・アクセラレーション(大加速)と呼ばれている。
このような時代認識を世界中で共有したとき、私たちはどのような未来を作り出すべきなのだろうか。
著者は、この問いに対し、マルクスに依拠して、脱成長コミュニズムだと答える。

たしかに、マルクスは資本主義に内在する矛盾を見事にえぐり出した。
しかし、その矛盾を社会主義・共産主義によって解決する方策は、ソ連や中国の例が示すように、うまくいかなかったことを私たちは知っている。
また、東西冷戦下では両者とも生産性を競っていたために、東側も西側と同様かそれ以上に、公害・環境問題が頻発していた。
それでもなお、マルクスを参照する理由はどこにあるのだろうか。

著者は、この問いに対して、私有に対して国有化を図るのではなく、コモン化を拡げることを主張する。実際、マルクスを注意深く読めば、そのように書かれている。
さらに、その際に分かち合う人びととは、地域コミュニティではなくて、共通の目的を持った人びとから成るアソシエーションが想定されていた。現代で言えば、NPO・NGOのような集団である。

マルクス主義が環境破壊に対して無力だったという批判はどうだろうか。
これに対して著者は、晩期マルクスを読み解くことにより答える。
すなわち、マルクスはエコロジーを深く学び、森林などの資源の持続可能性について考えていたと説明する。
ここでは、著者も参加しているというMEGA(マルクス・エンゲルス全集)刊行プロジェクトにおいて、マルクスが書き残したメモ・抜き書きなどが、近年続々と明らかにされてきた研究成果が発揮されている。

以上のような本書のロジックに異論はない。
ただし、晩期マルクスを持ち出さなくても、また、そもそも人新世だからと言わなくても、本書に書かれているような社会構想を、私たちは持っていた。
たとえば、宇沢弘文の社会的共通資本論では、大気、森林、河川、水、土壌などの自然環境、道路、交通機関、上下水道、電力・ガスなどのインフラ、教育、医療、司法、金融制度などの制度資本を「社会的共通資本」と呼び、これらを市場原理に任せるのではなく国や地域で守っていくことで、人々が生き生きと暮らせると主張した。コモンズ論においては、地域コミュニティが共同管理してきたコモンズが解体されていくなかで、どのようにコモンズを再編できるのかと問い、新しい担い手としてNPO・NGOが期待されていた。エントロピー経済学は、主流派経済学と距離を置き、地球環境という生命系の持続性を最優先に考え、熱学的思考を取り入れた独自の経済理論を深めるととともに、水車むらの活動に代表される社会実践も展開した。
また、人類が地球環境に対して取り返しのつかないほどの影響を与えるようになったという認識も、けっして新しくない。たとえば、オゾンホールの発見に象徴される地球環境の危機が認識されるようになったのはソ連崩壊以前で、30年以上も時代をさかのぼることができる。
だから、本書にあるような問題認識とその解決に向けた対策には既視感があった。
そして、これまでNORAが20年間取り組んできたことは、こうした問題認識に基づく社会実践であった。

本書が多くの読者を得ている理由は、著者がさまざまな情報を手際よく整理した上で、現在の資本主義が陥っている問題構造をわかりやすく分析する、その切れ味は鋭さにあるだろう。
その勢いそのままに、SDGsという言葉で何かを解決したような気になっている人びとに「SDGsは「大衆のアヘン」である!」と警告する。
そう言いたい気持ちもわかるけれど、気持ちよく批判すればいいとは思わない。
私たちは立場や考え方の違う人たちとも、この地球で生きていく。
だから、企業も含めて盛り上がってきたSDGsへの興奮に冷や水を浴びせるよりは、ともに考え行動する場をつくる方がいい。
私はそう考える。

本書のわかりやすさは、社会をつくる際には弱点となると感じている。
社会とは複雑に絡み合い変化するものだから、わかったようなつもりになってはいけないし、ましては、こうすれば変えられると考えてはいけない。
わからない社会を変えていくことは大事だし、必要ではあるけれど、ああすればこうなるというものではないと考えておくことの方が、よっぽど大事だし必要だと思う。
そのことを含めて、多様な視点から理解し、いろいろなあり方とどう付き合うか、折り合うかの方が実践的に重要だと考えている。
つまり、私は理念よりも経験から学ぶことに信頼を置きたい。

幸いなことに、著者のような理想的な構想を抱き、熱意を持って行動してきた先人がいる。
人びとがどのようなことを考え、何をおこない、どこがうまくいき、何がうまくいかなかったのか。そうした営為について、あらためてたどり、学ぶことが必要ではないか。
そうした人びとのたどった道を生かすことが、社会をつくるために、そして、その社会をつくる人をはぐくむために大事なことだと信じている。

(松村正治)

雨の日も里山三昧