第100回 下山進『アルツハイマー征服』

2021.1.31
雨の日も里山三昧

下山進『アルツハイマー征服』(2021年、KADOKAWA)

1/14(木)朝、母が緊急搬送されたと連絡があった。
夜も明けないうちに出歩いていて転倒。
側頭部に出血している状態を発見してくれた人が通報してくれたらしい。
雪の残る中、母は何も持たずにサンダル履きで家を出た。
救急隊に「今何時だか分かる?」と問われ、「昼間」と答えたという。
街灯のない暗闇を、何を求めてさまよい歩いていたのか。

頭部の怪我は大きくなかったが、骨盤にヒビが入っていた。
しばらく絶対安静が必要。その後のリハビリを含め、長期入院となった。
しかし、コロナ対策のため、家族でも面会できない。
昨日、入院先を訪ね、ソーシャルワーカーから説明を受けた。
ケアマネージャーとも話をした。
退院後、自宅での一人暮らしは困難と思われる。
リハビリで、どのくらい歩く力が回復するのか。介護施設の空き状況はどうか。
諸条件を総合的にみて、判断することになりそうだ。

12/31-1/4、介護サービスが休みの間、私は母と一緒に過ごした。
先月あたりから目立ってきた深夜徘徊のことで、病院にも相談していた。
この怪我は、想定できる範囲の出来事だった。
母とのいろいろが緩慢に進み、突然終わる。
手料理を最後に食べたのはいつだっただろうかとふりかえると、思い出せない。
この年末年始は、母と家で過ごす最後になったようだ。

母がアルツハイマー型認知症だと発覚したのは2016年春のことだった。
その2年前の2014年3月にパートナーを亡くし、大きな喪失感から、しばらく何も手に付かない状態だった。
伯母はそのような母を見かね、毎週、東京から山梨へ通った。
あとで知ったことだが、2014年6月から母は、「もの忘れが気になる方へ 記憶サポート帳」という日記形式のノートに、日々の出来事を書き留めてようとしていた。
しっかりしなければと思いつつも、心も体もついていかない状況に、何とか抗って自分を奮い立たせようとしていたのだろう。

私たちの家族は、それぞれのことを気にしながらも、自由に自分が生きたいように生きるのがいいという価値観を共有していた。
誰も知人のいないところで田舎暮らしをすると決めたのは母自身だから、介護のために息子たちの手を借りることを母はひどく嫌悪した。
伯母は母の変調について息子たちよりも早く鋭敏に感じていたはずである。
しかし、そのことを私たちに伝えて、もっと協力をと促すことは、母のプライドを傷つけると思って避けていた。
その分、ご近所の方々の献身に甘え、頼りすぎてきた。
もっと早くから、母のためにできることはなかったかと思うことはあるが、それぞれがお互いを思いやった結果である。
人を愛し、傷つき、悔やみ、考えがぐるぐる回り、一巡して前を向く。

さて、本書は1月に出たばかりの新刊である。
内容は、私が直面しているアルツハイマー病患者の介護の話ではなく、この病気の治療薬を開発しようという人びとをめぐる話である。
本書を手に取ったのは、HONZで取り上げられていたからであるが、この紹介記事に書かれているように、欧米のサイエンス・ノンフィクションのような趣がある。

アルツハイマーの創薬にかかわる人は、日米欧をはじめ世界中にいる。
そうした人びとによる開発競争や人間模様が、言語の壁を越えて、スムーズに読み進めることができる。
その背景に、筆者のグローバルな取材力、および、医学・薬学分野の難しい内容を一般の読者にわかるようにかみ砕いて伝える表現力がある。
もちろん、専門的で十分には理解できない部分はあったし、文章を書いた時期にバラツキがあるのか少し重複が気になる部分はあったが、話の筋を追うのにはまったく苦労しない。
一級のノンフィクション作品に仕上がっている。

現在、この病気については、症状の進行を抑える薬はあっても、原因治療できる承認薬は開発されていない。
それも、せいぜい8か月~2年と言われている。
母の症状についても、薬を服用して、どの程度進行を遅らせることができたのかわからない。
主治医に言わせれば「予想通り」で、日によって違うし一日のうちでも波があるが、症状は悪くなる一方だ。
それでも、家族からすれば、本書に克明に描かれている日本の製薬会社エーザイが開発した治療薬「アリセプト」には感謝している。

本書を通して私が初めて知ったことは、アルツハイマー病は症状が目に見える何年も前の段階で、体内で脳機能の不可逆的な変化が生じているということである。
だから、対症療法ではなく原因にアタックするならば、早期に発見して介入していくことが必要である。
治験を通して薬を開発するには、アルツハイマー病を発症する前に発見して服用してもらう必要がある。

アルツハイマー病についての研究が進むにつれて、遺伝子がこの病気の発症に重要な役割を果たしていると明らかになった。
そうした観点から注目されるのが、家族性アルツハイマー病である。
アルツハイマー病は70歳以上で発症することが多いが、30〜50歳代という比較的若い段階で発症する患者もいらっしゃる。
そうした若年性アルツハイマー病のほとんどは家族性であり、親から受け継がれた遺伝子変異によって引き起こされる。

巨大製薬会社(メガ・ファーマ)、製薬ベンチャー、大学研究者などが、血道を上げて創薬に携わる一方で、家族性アルツハイマー病の家系の人びとは、その宿命とともに生きながら、治療薬の開発を切望する。
さまざまな立場の違いがありがらも、本書の登場人物たちは、アルツハイマー病の克服を願う点で一致している。
そこに私は人が人の幸せを願う心情を感じ、温かい気持ちになった。

著者によれば、本書は2000年代初めに刊行する予定で取材を進めていたらしい。
当時、アルツハイマー病はワクチンによって征服されるという明るい兆しが見えつつあった。
しかし、その方法は深刻な副作用をもたらすことから頓挫した。
その後は、なかなか治療薬の開発は進まず、投資分を回収できないことから、開発から手を引く会社が増えたという。

それが、このタイミングで出版されたのは、アルツハイマー病の進行に本源的な変化をもたらす可能性を持つ初めての治療薬が、現在、日本、欧州、米国で承認審査中だからだ。
アデュカヌマブ、日本において新薬承認を申請(エーザイ株式会社)

本書を通して、これまでの治療薬の研究開発の歴史を知れば、まだまだアルツハイマー征服までには時間を要するだろう。
それでも、私は人が人の幸せを願う力の強さを信じたい。

(松村正治)

雨の日も里山三昧