寄り道49 ケアすること/されること

2020.12.1
雨の日も里山三昧

ほぼ毎月、日帰りか1泊で、山梨県身延町に一人で暮らす母を訪ねている。病院の付き添いや介護サービスの契約更新など、日に合わせて行くことが多いが、特別な用事がなくても、定期的に暮らしの様子を見に行っている。
現在、母は平日5日のうち3日はデイサービスに行き、2日はホームヘルパーに来てもらっている。デイサービスに行かない日は、配食サービスを利用している。平日は昼食を、休日は夕食が届けられている。

最初に介護保険サービスを利用したのは、昨年10月だった。運転免許の更新の際して受けた認知機能検査をクリアできず、免許を返納した頃である。手始めにと、週に1日1時間のホームヘルパーの派遣契約を結んだ。その後、週に1日が2日になり、次に週に1日デイサービスに通うようになり、それが2日になり3日になり、配食サービスは平日のみだったのが休日までお願いするようになった。約1年の間に、介護サービスへの依存度は急速に深まった。パートナーを亡くし、物忘れが増えたのが6年前、医者にアルツハイマー型認知症と診断されたのが4年前だった。こうふりかえると、認知機能の下降線は比較的ゆるやかに推移していたように思う。それが、この1年で鋭角的に落ちてきたのは、免許を手放して自由に出かけられる範囲が狭くなったことと深く関係しているだろう。

母の一人暮らしを支えているのは、介護サービスでお世話になっている方、地域の方、そして家族である。社会保障のモデル的に表せば、共助(介護保険)、互助(地域や家族)に分けられる。今日の日本社会では、高齢化とともに医療福祉のニーズが増加する一方で、人口減少や低成長が続いている。おのずと共助では足りないことから、自分で貯蓄して必要になるときのために備えるか、地域や家族の「絆」に頼ることになる。菅首相は、自助、共助、公助を政策理念に据え、メディアは「絆」が大事と伝える。もう自力では頑張れない人にも自立と自己責任を求め、近代化とともに薄れてきた共同性を強めようとする。時代の趨勢に逆らうようで、かなり無理のあることだと思う。
でも、こうした状況をすべて政府のせいにして、何とかしろと言いたいわけではない。こうすれば間違いないという正解はないに違いない。だから、正しい答えにたどり着きたいとは思わない。代わりに、よく考えたい、よく悩みたいと思っている。

母は、約15年前に世田谷区から移住した「東京の人」である。地域コミュニティの中で、若い頃から人間関係を育んできたわけではない。また、誰とでも仲良くなる性格でもないので、コミュニティ内で付き合いのある人が少ない。
それでも、近所には母のサポートに尽力してくださるYさんがいる。その毎日のように、母が家の中で見当たらなくなってしまう財布や眼鏡を、一緒になって探す。処方された薬を適切に飲んでいるかどうか、ご飯を食べたかどうかを確認する。家の中に食べるものがないと、車で買い物に連れて行く。役場に出す必要がある書類の届け出、病院への付き添いも引き受ける。ときには、そうした支えや見守りが、母にとって疎ましく感じられ、辛い言葉を聞くこともある。それでも、一番大変なのは本人だからと、笑って対応してくださる。本当にありがたく、ただただ感謝している。そのYさんも先日お父様を亡くされ、お母様を近くで支える時間が増えている。ホームヘルパーの訪問時間は、1回1時間から1時間半に増やすことになった。
2-3年前には、Yさんのほかにも母を熱心にサポートしてくださる方がいた。しかし、たとえば、母が庭の掃除を近所の人に頼んだのに、いざ来てもらうと「頼んでいない」と言い張り、追い返してしまう。財布をなくしては近所を「私の財布を知らない?」と言って訪ねるので、訪ねられた側は疑われているような気がするので、次第に距離が開いてしまう。それでも、早朝から当てもなく母が歩いている姿を集落の人が見つけると、心配をして声を掛けて、ケアマネージャーさんを呼んでくれるように、ご近所さんはそれとなく見守ってくれている。大変ありがたいことである。

家族によるサポートは、主として東京にいる伯母、妻と私、それに京都にいる弟がかかわっている。伯母は、毎日、朝晩決まった時刻に母に電話を掛けて、健康状態を気遣っている。私は電話で母と気分良く話すことが苦手なので、毎日の安否確認は伯母に任せている。伯母は、満足に食事を取ることが難しくなっている母に、毎週のように手作りの料理や保管のきく食べ物などを送り届けている。とても献身的で、ただただ頭が下がる。
先日、その伯母と久しぶりに対面した。そのとき、伯母から「もし私がキッコ(母は菊子という)と同じ病気になっていたら、まちがいなくキッコは私に同じようにしてくれたはず」という言葉を聞いて、私は思わず涙した。
弟と私は、訪問するたびに母の様子、家の状況などをレポートにまとめ、共有している。私が書くレポートは、たいてい長い。なぜ長くなるかと自省してみると、文章を書きながら時間を稼ぎ、母の家の出来事から距離を取りたいのだと思う。この時間に、私は母を気遣うチームの一員であることに誇りに感じている。

私は、一人で母を訪ねると、たいてい1回の訪問で一度は大声を上げてしまう。本人が一番辛いことは理解しているつもりだが、自分をコントロールできないことがある。私が母のことを心配して、たとえば通帳を持っていると確実になくすので、預けるようになどと行動を制約するように言うと、機嫌を損ねた母は「それは、自殺しろと言われているようなものよ」と言う。そう言われると、「自殺とか言うな!」と声を荒げてしまう。そして、すぐに反省するが、その後になんと言っていいかわからない。そのうちに、母は口喧嘩したことを忘れる。居たたまれなくなる時間が短いのは助かるけれど、後味の悪さを引きずったまま帰宅することになる。心穏やかにいたいのに、そうすることができないのは、なぜなのだろうと考え続ける。

それでも、それを苦しいとは思わない。母と向き合うために、いつか訪れる死を受け入れるために、私にとって必要な時間なのだと思う。ピンピンコロリが、本人にとっても家族にとっても最高の死に方だと言われることがあるけれど、本当にそうだろうか。人を思うこと、人のために何ができるかと頭を悩ませることは、私を人間にしてくれる。

(松村正治)

雨の日も里山三昧