雨の日も里山三昧

第42回 『森林飽和』(太田猛彦)

2013.3.1
雨の日も里山三昧

太田猛彦『森林飽和』(2012年、NHK出版)

2月末、仙台へ行く用事があったので、仙台空港や閖上地区などまで足をのばし、
約2年前に大津波に襲われた地域の復旧・普及の様子を見てきました。
私はなぜか仙台平野から太平洋を眺めたかったのですが、
沿岸一帯は堤防や海岸林などの復旧工事が延々と続いており、
工事関係者以外は立ち入りが禁止されていて、
海に近づくことはできませんでした。
海岸に平行している道路をしばらく北上しましたが、
どこからも海へ近づくことはできず、
遠目に残存しているマツ林と稼働中の工事車両を眺めました。
海が遠い存在でした。

海岸林を眺めながら、本書の第一章を思い出していました。
仙台平野一帯では、強風、飛砂、塩害などから
人びとの暮らしや農地を守るために海岸林を造成してきました。
それだけではなく、海岸林には津波を弱め、遅らせるという減災機能もあり、
東日本大震災でもその効果が認められました。
しかし、そのときの津波によって、
宮城県では約1,800haの海岸林が被害を受けました。

さて、本書では、最初に津波に遭った海岸林を取り上げ、
そもそも、なぜ砂浜海岸に人びとはクロマツを植えたのかと論を進め、
それは海岸地域で飛砂害が非常に深刻であったからと説明されます。
つまり、かつては森林が収奪されており大量の土砂が海へ流出していたため、
浜辺に打ち上げられる砂も多く、強風で内陸へ運ばれる飛砂も多く発生したのです。
こうした見取り図を示して、日本列島における人びとと森林の関わりが
歴史を通してどのように変遷してきたのかを明らかにしていきます。

ここで、一般の読者は日本の森林に対して、
次のようなイメージを抱いていると想定されているようです。
すなわち、昔は豊かな森林に恵まれていたのに、
近代化とともに環境破壊が進んで、森林は減少しているというものです。
しかし、そうしたイメージとは違って、古代から森林破壊の歴史はあったし、
16世紀頃からは明らかに森林破壊が広がり、
特に江戸時代中期以降は明治時代までは荒廃が進みました[第二・第三章]。
これに対し、明治以降、国土保全のために法律が整備され、
戦後はエネルギー革命や外材の輸入などのために森林は見放され、
数百年ぶりに緑の量が回復していると書かれています[第四章]。
つまり、世界的には「森林破壊・減少」が大きな環境問題となっていますが、
日本においては、「森林飽和」の状態となっていることこそが問題であると
強く主張するために、こうした書名となっているのでしょう。
ただし、このあたりの記述は、(森林)環境史の研究成果を参照して
書かれたもので、森林/里山の歴史に興味を持っている人ならば、
すでにご存じのことも多いと思います。
それでも、こうした現況に対して思い切って「森林飽和」と名付け、
問題化した点は大いに評価すべきでしょう。

第五章は、森林飽和状態の副作用として、
表面浸食や表層崩壊といった山崩れの減少、水資源の減少、河床の低下、
海岸の変貌といった近年の変化を、
近年の研究成果をもとに論理的に説明されています。
ここでは、緑のダムとも言われる森林の機能について、
針葉樹よりも広葉樹に高い効果があるとか、
森林があると水が涸れにくいという一般のイメージを覆すデータが示され、
説得力のある議論が展開されています。
森と土と水を関連づけて統一的な説明がされており、
著者の専門分野である森林水文学の魅力がよく伝わってきます。

以上のように、本書は森林に対する一般のイメージを覆す内容になっており、
その点が、ネット上の書評でおおむね高く評価されている理由のようです。
しかし、今回、私が本書を取り上げたのは、
そうした啓蒙的な内容に惹かれたからではありません。
本書の内容ではなくて、本書の受け止められ方に興味を持ったというか、
率直に言うと驚いたのです。

(森林)環境史については、すでにこの分野で古典的となった
千葉徳爾『はげ山の研究』(農林協会→そしえて、1956年→1991年)や、
只木良也『森と人間の文化史』(NHKブックス、1988年→2010年)
C.タットマン『日本人はどのように森をつくってきたのか』(築地書舘、1998年)など、
定評のある良書があります。
こうした中から、人が自然(森林)を利用してきた歴史を踏まえ、
人と自然を対立的に捉えるのではなく、
人が自然と関わりながら、守っていく方法について議論されてきました。
(たとえば、守山弘『自然を守るとはどういうことか』(農文協、1988年)
鬼頭秀一『自然保護を問いなおす』(ちくま新書、1996年)など)、
そして、合わせて市民による運動が実践され、
行政も施策を講じてきたと、理解しています。

1990年代、都内の雑木林(公有地)で伐採更新を実施したら、
周辺住民から森林破壊だと受け止められ、
行政から中止させられるという事態がありました。
その後、関係者に時間をかけて説明を尽くし、
適当に樹木を伐採することができるようになりました。
こうした現場での地道な取り組みを重ねて、
次第に自然に手を入れながら守ることについて理解が得られ、
日本列島における「森林飽和」も問題として
受け止めるようになってきたと考えていました。
しかし、おもにネット上での本書の取り上げられ方を見た限りですが、
ここ四半世紀くらいに生じた自然に対する見方の変化は、
社会にはあまり浸透していないのかもしれません。
「現代の日本では緑がどんどん失われている」という認識が、
今でも一般的であることをあらためて知りました。
まだまだ、自然との付き合い方を考える上で知っておきたい情報を
NORAから伝えていく必要があるようです。

ところで、本書の内容については、ほとんど納得しているのですが、
こと「里山」に関する記述については、違和感を覚えました。
著者の説明のとおり、かつての森林の中には、
はげ山になるほど収奪されていたところがあるは事実ですし、
その中には集落に近い「里山」と呼ばれるところがあったのもそうでしょう。
しかし、そこから、里山の「知られざる実態」として
「里山とは荒れ地である」などと断言してしまうのは、
一般向けに書かれたものとはいえ、かなり乱暴だと思います。
それは、著者が「里山」と言うときに何を指しているのか曖昧であり、
歴史的な変化や地域的な多様性を軽視して、
一括して里山全般を記述するのは無理があるはずだからです。
こうした主張に触れると、「里山」は多くの人に愛されているために、
批判も受けやすい位置にあるのだと感じます。

ともあれ、こうした啓蒙的な主張が、いささか過剰気味である点を除けば、
本書はコンパクトなサイズでありながら、
日本列島における人びとと森林との関係史を把握できるので便利です。
これから里山(森林)保全を考えるならば、本書で大枠を理解した上で、
さらに文中に挙げたような本へと進むとよいでしょう。

(松村正治)

雨の日も里山三昧