07月06日 (月)|2009.7.06 私は、野菜のことも、農業のことも、何にも知らなかった。ただ、破壊は、もうたくさんだったのです。
神奈川県内・生産者限定の農産物を販売していると、よく生産者と間違われます。ポップには、なるべく大きな字で、作物の名前と価格だけでなく、産地と生産者の名前を書いているのですが、あまり目にとまっていないのか。
「どこから来たの?」って聞かれるとも少なくありません。(また、生産者だと思われているな。)
そこで、聞いていただける限り、以下のようにお答えするのです。
『私は、金沢区の出身で、農家とは縁もゆかりもない生まれなんですよ。なにしろ横浜の京浜急行沿線育ちですから、横浜や神奈川に農業があるということすら、イメージにはないまま大人になったのです。ところが、一生懸命頑張っている生産者がいる、素晴らしい作物を作っている、神奈川の農家と農業に魅せられてしまいました。私のように、神奈川の農家や農業のことを知らない人は大勢いる。そういう、私の仲間たちに知らせたい、食べて欲しい、味を知って欲しい、というのがそもそもなんです。』
今から37年ほど前のことです。
横浜横須賀道路を通すために、円海山のトンネル工事が始まるころ、富岡から、尾根道づたいに鎌倉・天園まで歩いていけた道は、ケーキをナイフで切り取るように、山ごと大きくえぐられ、ご丁寧に迂回路の看板!
私は、「俺の道はこっちだ!」と、えぐられた絶壁を、年の離れた幼い弟を連れて下り、反対側の絶壁を這い上がったところに犬の鳴き声!わずかな畑と小さな民家の庭先に私はたどり着いたのです。
60歳ぐらいだったのでしょうか?穏やかなご婦人が目の前に現れたとき、「あ!神奈川新聞で紹介されていた人に違いない!=釜利谷で自給自足のランプ生活!=おばさん!」
私が18歳ぐらい、1972年ごろの出来事です。
すでに、洋光台・港南台の開発はほとんど出来上がり、いよいよ、金沢地先の埋め立て工事が始まるころでした。 横浜市民のみならず、多くの子どもたちに潮干狩りの思い出を残してくれた、干潮になるとどこまでもどこまでも広大な干潟が現れる、富岡の海が、浜辺が、永遠に消えていこうとしていました。
その海を埋める土砂は、あの釜利谷の山で暮らす、戦後、おじさんとささやかに、自然のとともに暮らしてきた、今は一人になってしまったおばさんの家もろともに山を削って埋め立てに使おうというものだったのです。【つづく】
(ゆたぽん)