雨の日も里山三昧

第46回 『未来の食卓』

2013.7.1
雨の日も里山三昧

舞台は、農業の盛んな南フランスのバルジャック村です。
2006年、この村では学校給食と高齢者への配食をオーガニックに変えました。
この映画は、この挑戦の1年間を撮影したドキュメンタリーです。
私はゼミで学生たちとともに観ました。

冒頭、オーガニック化される前の学校給食には大量の添加物が使われており、
その中には発がん性が疑われるような物質も入っていること、
ヨーロッパでは、癌や糖尿病などの生活習慣病の70%は、
食習慣を含む環境に原因があると言われていることなどが、
気分を落ち込ませるような音楽とともに示されます。
現代の食や農業を取り巻く環境は悪化しており、
健康への被害が憂慮される事態となっていることが、
いくつものデータとともに説明されます。
農薬の大量使用が子どもの癌と深く関係していることも示唆されます。

私は、このように人びとに恐怖を植え付け、危機感を煽って、
「正しい」行動を取るように仕向ける方法は好ましく思わないので、
この点については、説教くさくて気に入りませんでした。
私は「正しい」という思い込みほど怖いものはないと思っているので、
この映画が伝えようとする「正しい」情報を、
ナイーブに吸収しようとはしませんでした。
でも、私は学校給食と高齢者への配食のオーガニック化は、
試みる価値のあることだと思っていましたし、
この映画を観て、その気持ちはさらに強くなりました。
なぜなら、そうした変化が「正しい」からではなく、
人びとを、地域社会を楽しくしそうに感じられたからです。

映画の初めの方と終わりに、学校に通う子どもたちが次のように歌います。

平野のセメント 山へ流れ
僕らの田舎や泉に毒が溢れる
嵐に暴風雨 僕らの歴史も沈む
合言葉はいつも ”健康なフリを”

暮らしのために 空気を買う
石油マネーは 命を脅かす
地球のどこにも逃げ場はない
さまよう無断居住者 人ごとじゃない

世界を変える時が来た
樹々を持て 民衆よ
今こそ立ち上がる時が来た

明日に続く 世界のために
誰かを責めてる場合じゃない
自分たちが動かなければ始まらない
闘いの時が来た

この痛烈に社会を批判した歌に対して、
「一種の洗脳」の匂いをかぎ取った学生がいました。
たしかに、私もそのように思う部分がありましたが、
歌詞の内容には納得できる部分が多いですし、
曲自体は格好良くて、一緒に歌いたくなるように感じました。
子どもたちは「正しい」からではなく、
「楽しい」から歌っているように思えました。

また、この映画でいいなと思ったシーンの1つに、
給食の調理師の人たちが子どもたちと話をするところがあります。
彼らは、オーガニックに変えたことで、
自分たちがつくる給食を誇らしく語れるようになりました。
それまでは予算制約のもとで、
つくりたい食事もつくれず、誤魔化していたのです。
そうした事情を隠さずに話せるにようになり、
彼らはもうかつての給食には戻りたくないと言います。
こう子どもたちに語るとき、
調理師たちは良いことをしている「ふり」から解放されて、
伸びやかで自信に溢れているように見えました。

給食がオーガニックであること。
それ自体は、実は重要ではないのかもしれません。
むしろ、仕事に誇りを持っている大人が給食をつくり、
それを子どもが食べるということが大事なのだと思いました。
周りの大人が「ふり」をしながら生きている社会では、
子どもも「ふり」をしながら生きることが当たり前になるでしょう。
そして、社会が抱える問題は先送りされ、固定化してしまう。
どこかで、今まで積み残された問題を他人のせいにせず、
自分事として捉えて動き出す必要があります。
そのことは、誰もがよくわかっているのだけれど、
なかなか変えることができないのが現状です。
言い訳をしようと思えば、いくらでもできます。
しかし、言い訳し続ける生き方がいいのか、
問題を自分で抱えて解決しようと試みる生き方がいいのか。
どちらが正しいかと問いたいのではなく、
私だったら、後者の方が楽しいだろうし、
自分の価値も感じられると思います。

もちろん、なぜ楽しく感じられるのかを探っていけば、
それは社会のあるべき方向へ向かっているという感触が得られるからです。
だから、「楽しい」のは「正しい」からとも言えるのですが、
これを重ねる方向で考えることが大切だと思います。
(原題の『子どもたちは、私たちを訴える』を、
『未来の食卓』と意訳したセンスは巧みだと感じます。)
NORAの活動でも、このことは大事にしています。
楽しくないことは、社会に普及すると思えませんから。

ところで、バルジャック村は、学校給食だけではなく、
高齢者への配食もオーガニック化しました。
映画では給食に関する場面がほとんどであり、
配食サービスについてはあまり取り上げられていませんが、
これもまた社会にとって重要な問題です。
学校給食をどうするかという問題、
たとえば、自校式かセンター式かという問題は、
しばしば社会的な問題として取り上げられます。
しかし、高齢者がどのような食事をとるかは、
学校給食よりも私的な問題だと捉えられがちです。
これを社会的な問題とともに大切に捉える村の姿勢は、
大いに評価できると思いました。
高齢化がますます進行している日本でも、
こうした問題に取り組んでいきたいものです。

最後に、この映画に関連する情報をいくつか整理しておきます。
日本で学校給食に有機農産物を導入している町として
有名なのは愛媛県今治市です。
今治市の取り組みについては、
安井孝『地産地消と学校給食―有機農業と食育のまちづくり
(2010年、コモンズ)に詳しく書かれています。

また、この映画を撮った監督のジャン=ポール・ジョーは、
その後、『セヴァンの地球のなおし方』を撮り、
現在は、最新作『世界が食べられなくなる日』が渋谷アップリンクで上映中です。
なお、アップリンクでは「食べもの映画祭」を開催中で、
いくつかの食関係の映画をまとめて上映しています。

(松村正治)

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