第96回 鳥越ほか編『生活環境主義のコミュニティ分析』
2020.6.1雨の日も里山三昧
鳥越皓之・足立重和・金菱清編, 2018, 『生活環境主義のコミュニティ分析―環境社会学のアプローチ』ミネルヴァ書房.
環境社会学会から本書の書評を書くように依頼されているので、とりあえず、草稿をアップしておく。
1.はじめに―私と鳥越スクールの対話
本書は、鳥越皓之さんの退官記念論文集である。書籍販売サイトの商品説明によれば、「鳥越に薫陶を受けた論者たちが、それぞれのフィールドとの格闘から生活環境主義という立場の現代的な意義を新たに見出す」ために刊行されたものだ。鳥越門下生24人もの論考が収められており、500ページを優に超える大部である。まずは、この記念碑的労作の評者として、編者からご指名をいただいたことを光栄に思い、素直に喜びたいと思う。
学会誌上では、この書評と足立重和さんによるリプライがセットになって掲載されるだろうが、私と鳥越スクールとの対話は今回が初めてではない。個人的なことになるがふりかえっておくと、最初は2002年9月の環境社会学会研究例会であった。当時、2001年度~02年度の研究例会では、「環境社会学の主要な研究諸潮流の回顧的検討」をテーマとして、学会設立後10年間の研究を総括し、諸概念の再検討が試みられた。そのなかで生活環境主義について検討する研究会があり、私が「『生活環境主義』以降の環境社会学のために」と題して報告をおこない、荒川康さんは生活環境主義を擁護する立場から応戦した。その後、このときの議論を踏まえて私はレビュー論文をまとめ、荒川さんは五十川飛暁さんと共著論文を発表した(松村, 2007, 荒川・五十川, 2008)。
その拙論は科研費の報告書に書いたものだったが、それを読んでくださった鳥越さんから、後日、メールで好意的な評価をいただいた。その後ほどなくして、『よくわかる環境社会学』に「生活環境主義」について1ページで説明するコラムを執筆することを依頼された。鳥越スクールの門下生ならば、生活環境主義をめぐる豊富な議論の蓄積を考慮して、この仕事は無理難題だと考えたに違いにない。私はありがたいご依頼を引き受けたものの、脱稿後、自分が書いてよかったのだろうかと考え続けたし、それは今も変わっていない。
2.この書評で議論すること
本書は、生活環境主義を理論的に再考する序章と、鳥越さんが生活環境主義のこれまでとこれからについて語る補論があり、あいだに個別の事例分析が5部24章に収められている。論文を寄せている方々が、環境社会学会や日本村落研究学会などの中心を担っていることから、中身を読む前に、鳥越スクールが多くの優れた研究者を輩出してきたという事実に驚く。本書を読めば、そうした鳥越スクールの秘訣がわかるというわけではないが、全体を読み通すことによって推測することはできるだろうし、ここでも試みてみたい。
さて、限られた紙幅なので、この書評をどのように書き進めるのか方針を立てておく。各章の事例研究のすべてに公平に言及することは生産的ではないので、序章と補論に焦点を当てる。補論において、私が「生活環境主義の歴史的役割が終了したというような趣旨の論文」を書いたと紹介され、さらに、「松村さんの指摘は半分当たっていて、半分当たっていない」と鳥越さんの評がある[p.530]。この評価には応えたいので、論点の1つに生活環境主義の歴史的役割、問いのかたちに変換するならば、生活環境主義は陳腐化したのか、を置く。
つぎに、足立さんの論考から、2つの論点を取り出したい。1つは言い分の重層性について、もう1つは現場との格闘についてである。それぞれ、序章の3節、4節に相当する。
最後に、鳥越さんは門下生たちに「各論者は事例を生活環境主義で書くことはできるので、それに簡単に甘んじることなく、生活環境主義を乗り越える」ものとして書くように注文されたとのことなので、本書によって乗り越えられたかどうか見解を述べる。
3.生活環境主義の陳腐化
生活環境主義の歴史的役割については、前の拙論に書いたときと変わらず、政策論としては陳腐化したが、認識論としての独自性は魅力的だと考えている(松村, 2007)。ここで陳腐化とは、目新しさがなくなったということだが、むしろ、ありふれて普通になったことをポジティブに捉えるべきである。なぜなら、生活環境主義が提唱された1980年代と比較すれば、政策を立案し運用する際、一般には「当該社会に実際に生活する居住者の立場」に配慮するようになったと言えるからである。もちろん、このような傾向を生みだした社会構造の変化を理解する必要はあるし、また、見かけだけ言葉だけの住民ファースト政策に見られる問題も重要に違いないが、ここでは深入りしない。先を急いで、認識論に議論を移す。
生活環境主義の認識論の特徴として、「居住者の立場に立つ」というポジショナリティがあるが、この点は陳腐化している。この言葉は客観的な科学認識論が信じられていた時代には、それは、環境問題を研究することが反体制的な立場を示した時代とも重なるが、宇井純の「公害に第三者はいない」と同様にラディカルであった。すなわち、自分がどのような主義に立って物事を見て考えているのかを客観視して伝えながら、「客観的」と思われていた科学的方法を批判する効果があった。しかし、科学革命以降の時代に長く生きる私たちにとっては、これも普通のこととして受け止めることができる。
一方、今日でも魅力的に映るのは、行為ではなく「経験」を分析するという方法である。序章と補論を読んで、この「経験」に対する私の理解は浅薄だったと感じた。鳥越さんは補論で、森有正の経験論から影響を受けたことを述べている。おそらく、別の文献にも書かれていたのだろうが、そのときはあまり深く考えなかった。
森有正の「経験」という概念はユニークである。経験と体験を比較して論じている箇所を引用しよう。「人間はだれも『経験』をはなれては存在しない。……経験の中にあるものが過去的なものになったままで、現在に働きかけてくる。そのようなとき、私は体験というのです。/それに対して経験の内容が、絶えず新しいものによってこわされて、新しい者として成立し直していくのが経験です。経験ということは、根本的に、未来へ向かって人間の存在が動いていく。一方、体験ということは、経験が、過去のある一つの特定の時点に凝固したようになってしまうことです。」
その後、最後まで書いた草稿
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書評論文『生活環境主義のコミュニティ分析』草稿
(松村正治)