寄り道45 身体性と場所性を伴う活動の意味
2020.5.1雨の日も里山三昧
「新型コロナウィルス感染拡大のための対応(4/30現在)」のとおり、NORAの活動も、少なからず影響を受けています。
早くコロナ感染が終息することを願うばかりですが、しばらくして外出自粛が解かれると、また感染が拡大しというように、増減を繰り返されるでしょうから、安心して自由に行動できるようになるには1年くらいの期間を見ておいた方がよいでしょう。
しかし、そのときに訪れるコロナ後の日常とは、これまでの日常とは質的に異なるに違いありません。
なぜなら、コロナ渦のなかで長期間にわたり生活と仕事をしたなかで、これまでの常識や固定観念を覆すものがあったはずだからです。
たとえば、会議、情報共有、授業、診療、雑談、飲み会などもネットを通しておこなった人が増えました。NORAでも、定例第3月曜日のスタッフ会議を、先月初めてオンラインで開催しました。
これらは技術的にはすでに実現できたことでしたが、こうした事態に陥ったことで、社会的な経験が一気に拡大し、経験知が急速に蓄積されました。
実際に試してみると、同じ場を共有しないと不可能だと思われていたことが、意外にできるという実感をつかんだ人が多いことでしょう。
こうした経験は、否が応でも、これまでの日常を見つめ直すきっかけになります。
わざわざ、遠方から人を集めて報告事項ばかりの会議を開く必要があるのか、情報を共有するために書類を印刷して関係者に配付する必要があるのか、正式な書類として認めるのにハンコを押す必要があるのか、教員が一方的に話すだけの授業を受けるのに大学へ行く必要があるのか、医者から検査の結果について説明を聞くために家族もろとも病院へ行く必要があるのか、など。
さらに、問いは続きます。不要不急の外出を自粛するように要請されるなかで、本当に必要なことは何なのか、そのために人が移動する必要があるのか、物を届ける必要はあるのか。
こうしたふりかえりは、いずれ必要なことだったと思います。
すでに無駄があることが認識されていたけれども、これまでのやり方を急に変えるのも大変なので、そのまま踏襲していたか、軽微な変更にとどまっていたのでしょう。すでに改革者のなかには、無駄を省くサービスを事業展開したり、制度を変更したりしている人も見られましたが、日本のような成熟社会では、なかなか変わらない現実から、当面は変えられないという感覚を広く共有していたように思います。ですから、このコロナ危機を、社会が変わるチャンスとして捉える向きもあります。
感染拡大が収まらない現状では、優先順位として、亡くなる人を減らすこと、感染者を増やさないことが重要です。
自然災害と同様に感染症の拡大もまた、人類平等に危機が訪れるわけではありません。より厳しい環境に置かれやすい人がいること、理不尽な状況に陥りやすい人がいることに対して、社会的な感度を上げる必要があります。さらに、自分が困った場合には、それを我慢するばかりではなく、周囲に向けて伝えることも大事でしょう。
そうしたことを認識したうえで、コロナ後の社会のあり方について展望することも求められています。
その際、出ていくものを抑えるというだけでは、力が湧き起こってこないでしょうから、コストカットによって生じた余りを、本当に大事なことや、何か楽しくことを創り出すために生かしたいものです。
4~5月は、事業年度を3月末までとしている法人にとっては、定期総会に備えて事業計画を立てる必要がありますから、コロナの影響で事業を中止しているような場合は、1年間の事業計画だけではなく、ビジョンや中長期計画を考える機会とすることもできるでしょう。
ところで、コストカットとは、見方を変えると収入の減少、産業の縮小に繋がることにも目を配っておきたいです。
教育現場では、すでに授業のオンライン化は進められてきた経緯があり、コロナ後にこの動きが加速することは間違いないでしょう。オンデマンド型の授業が増えれば、授業料を下げる要因になるはずです。今後、安い授業料で行くことができる大学が増えるかもしれません。このこと自体は、経済格差による教育機会の不平等を緩和できるので喜ばしいと思います。しかし、その結果、優れた人が教育現場で働こうというインセンティブを低下させてしまっては、元も子もありません。
個人的には、教育分野への公的資金を増やさない限り、この問題を解決することは難しいと考えていますが、安ければよいという考えだけでコストカットを歓迎することは、将来を担う人たちに対する教育サービスの低下に繋がりうることを意識しておきたいです。
また、社会的距離を取っているあいだに、ぜひ考えておきたいこととして、オンラインでできることとできないことの性質の違いがあります。
オンラインの場合、遠く離れていても繋がれるので(以前から繋がっているのですが)、そうした人びと、あるいは世界の人びとと話し合い、情報を共有して、ともに行動することも難しくないでしょう。また、これまで地理的に離れているために断念していたことがあれば、その活動をすすめるチャンスが訪れました。また、地域に学校や病院がないため、教育や医療の心配から住みたい場所を離れざるをえない人にとっては、オンラインのサービスが充実することによって、居住地を選択できる幅が拡がるしょう。コロナの経験は、東京への一極集中が進む社会のあり方に再考を迫るはずです。
一方、オンラインでも代替できることが多いと気づくとともに、オンラインでは十分でなかったり、替えることのできなかったりすることも、また多いことに気づいたと思います。
実際、NORAの活動の中心的な部分は、オンライン化が難しいと感じています。
NORAでは、里山保全のために定例活動をおこなうとともに、里山とかかわるコミュニティづくりのために居場所を運営してしますが、ともに身体性と場所性を伴います。私たちは、川井緑地や「はまどま」で紡いできた物語を共有しながら、しぐさや身振りを含めて、身体全体でコミュニケーションを図り、コミュニティづくりに努めています。これらは、広い意味でケアにかかわる活動と言えるでしょうが、そうした活動のうち大半はオンラインでは代替できないように思います。
そうであるならば、その特徴にもっとこだわることが、ますます大切になるでしょう。
人と人が身体を伴って直接出会うからできること、人が直接的に自然に手を入れるからできることとは何かを掘り下げて、その質を高める工夫を考えることで、その時間を大事にしたいと思います。
(松村正治)