寄り道46 家族・社会・場所・歴史・表現
2020.7.1雨の日も里山三昧
6/27(土)夜、NORAサロン「松村正治×松村正直―家族・社会・場所・歴史・表現」を開催した。初めての弟との対談企画は、閉会後の懇談会も含めると3時半に及んだ。
このときの対話や質疑応答を通して考えたこと、また時間をおいて考えたことを、サブタイトルに即して、忘れないうちに記しておく。
1.家族
1.1.弟と対談した理由
はじめに、この企画の対談者として弟を指名した理由や企画の意図から説明したい。
NORA設立20周年記念事業として連続開催しているNORAサロンでは、各回の担当理事がそれぞれテーマを決め、「これまで」をふりかえり、「これから」を考えることが企図されている。SDGsの目標年限である2030年、つまり今から10年先の社会に向けて、NORAのビジョンを考えるために、各自の視点から題材を持ち込んで話し合おうという狙いがある。私の場合、個人史と里山保全運動史を織りなすように論文を書いたことがあるので、1人で話せるネタはあった。しかし、モノローグを懇談の中心に置くと、話が広く展開していかないような気がして、対談者を探すことにした。
まず、環境系・NPO系の中から適当な人を探そうとしたが、ピンとこなかった。私の場合、環境NPOの活動を通して表現することがあっても、目に見える表現型としての活動内容に対する興味は希薄である。今うまくいっているように見える活動よりも、その活動表現を生みだす根源に関心がある。それは、表現する個そのものであり、その個人が経験を通して何を考え、どう行動してきたのかである。
そう考えたとき、今回の対談者として弟が適当ではないかと思った。歌人である弟の表現型は、短歌を詠んだり、批評したり、講演したり、短歌結社を運営したりすることである。私の表現型は、里山保全活動に参加したり、環境社会学的な調査研究をおこなったり、講義したり、環境NPOを運営したりすることである。このように表現型は異なるものの、その中身を吟味すれば共通性を感じ取ることができる。それは、日常の風景の中で見落としがちなこと、社会の制度からこぼれ落ちるもの、人びとの記憶から忘れ去られることなどに目をとめ、耳をすまそうとする態度である。また、そうしたことが大事ではないかと、表現を通して提示できる信念である。いわば、思想レベルにおいては、同じ方向を向いて表現しているという信頼を寄せている。実際、私が長めの文章を書き上げたとき、それが学術論文であっても、最初に読んでもらうのは弟である。そうした信頼関係をもとに、それぞれの経験と表現について語り合えたら私自身も楽しめそうだと思い、弟に打診したところ、二つ返事で引き受けてくれた。
1.2. 家族からの解放と再集結
幼少期の私にとって、家族とは、どうあがいてもうまくいかないものであった。家族を顧みずに頑張って働いても父の会社は倒産する、リストラされる。話しても通じない、相手を思っても傷つけてしまう夫婦・親子関係。家族は、自分もその一部でありながら、絶対的な他者として存在した。
私の頭に重くのしかかっていた家族問題が軽く感じられるようになったのは、両親が離婚し、母の旧姓に改姓し、大学に進学してからであった。それまで自分の視野を狭めていた枠が取り払われたかのように、家族は複雑に絡まった解決しえない問題としてではなく、かつて一つ屋根の下で暮らした愛すべき4人の個々人として見えるようになった。
母は、新たにパートナーと事実婚をした。弟と父との確執は解消され、20代半ばからは毎年のように兄弟と父と男3人で登山と温泉を楽しんだ。母が60代半ばになって、東京を離れて山梨で田舎暮らしを始めた。弟と私の家族は、夏休みと年末年始に母を訪ねることが年中行事となった。しばらくは、家族という括り方を意識することが少なくなっていた。
それが、あらためて家族を意識せざるをえなくなったのは、両親の老いからである。特に母がパートナーを亡くし、認知症を患って介護が必要になり、私たちが家族であることから逃れられない絶対的関係にあるという現実が迫ってきた。
最近、弟と交わす言葉は、ほとんど母のことである。たとえば、私が山梨で1人暮らしをしている母を訪ねたり、弟が訪ねたりする。そのたびに、母の調子がどうだったか、家の中は乱れていないか、介護サービスに不足はないかなどのレポートを交換する。あるいは、近所の方から母の状況について頻繁に連絡があるので、それを簡潔にまとめてメールで共有する。
10代に悩み、20代になって解放された家族問題に、40代後半になって再び直面するようになった。この介護問題は、母の認知能力が一方的に衰えていくなかで、母の死まで原理的に解消されることはない。介護のあり方には「正しい」方法がないので、私たちは母をどう支えるのかについて絶えず適切かどうかをふりかえり、次のやり方を考えるしかない。
そうした反省を繰り返しながらも、母の介護について考えることは、ありがたい機会だととらえている。母の病気については理解しているつもりであっても、ときに苛立つことがある。母に向ける言葉が、ついきつくなってしまうことがある。反省するばかりだ。それでも、かつては息苦しかった血縁関係であったが、いまや親子関係であるこその歓びと労苦を進んで引き受けたいと思っている。
1.3. 家族史という個別性から表現の普遍性へ
今回の対談は、以上のようなファミリーヒストリーから話し始めた。参加者からすれば、自分とは関係のない他人の家族の話に過ぎない。それでも、私が私たちの家族から話し始めたのは、こうした個人的な経験がその人の表現を理解するうえで意味があると考えているからである。
このような考えを補強してくれる本として、たとえば、このコラムで紹介した小倉美恵子『オオカミの護符』、永野三智『みな、やっとの思いで坂をのぼる』がある。ともに、一度はその土地に、その家族に生まれたことによる必然的な関係から逃げるも、ご自身の生いたちを見つめ直し、その関係に向き合うことを通して見えた地平を私たちに示してくれた。私はこうした作品に、私的な個別性が公共的な普遍性に届く可能性を見ている。しばしば、公私混同は慎むべきものとされるが、多様な私性を包み込もうとする力が公共性をつくり出すと信じている。
また、兄弟対談という形式には、弟に対するお節介という側面も含んでいた。いまや弟は、『NHK歌壇』に出演し、短歌誌に連載を持ち、朝日新聞と朝日新聞の短歌時評の連載経験のある短歌の先生である。私も大学の教員を15年続けてきた大学の先生であるので思うことがある。それは、ある人から「先生」として位置づけられてしまうと、「先生」もまた1人の人間であり、その人間的な経験から表現が生まれていることが見えににくくなること。人間同士として出会うことが難しくなることである。だから、今回の対談では、虚構の高みに置かれやすい「先生」を、私たちが生きている地べたに引きずり下ろし、家族について話すなかから弟の人間的な部分を引き出せればとも思っていた。こうした機会が、「先生」にとっても「先生」と呼ぶ人にとっても、有意義であることを願っていたのである。
2.社会
企画を考えたとき、対談の流れを家族から始め、表現で終わることはすぐに決まった。兄弟の共通点として、この起点と終点を外さなければいいと思っていたからだ。それでも、この2つだけではテーマとして弱いと思ったので、ほかの共通点を探ることにした。
2つ目に社会という用語を持ってきたのは、私が家族問題を背負えずに向かった先が社会問題であったこと。家族が解散して出会ったのが、さまざまな人びとが集まる劇団で、それが社会と言えるようなものだったこと。また、私は社会学を専門としており、弟は社会詠に対して意見を持っていること。さらに、私たちの表現の先には現代の社会があることなどを踏まえると、対話が進むだろうと思ったからである。
今回の対談では、私たち兄弟はお金について考えていないことが露見したが、私はお金が大事であるという考えを人並みには持っているつもりである。しかし、社会学的に物事を見る癖があるので、経済について考える際には経済-社会の関係が気になってしまう。社会学者からすれば、現実社会に存在する市場とは自然状態ではなく、社会側の影響を色濃く反映する社会的な制度である。卵が先か鶏が先かと同様に、経済が先か社会が先かという問題はあるだろうが、この問いに対して私は社会が先と答えたいこともあって、対談のテーマの1つに社会を選んだ。
さて、現代の日本社会は、高度成長期以降の成熟社会であり、人びとが同じ夢や希望に向かって一丸となって突き進むような時代ではない。人びとの価値観は多様化し、島宇宙的なコミュニティが点在しているような状態にある。インターネットの普及は社会の個人化を加速させ、人びとに共有されるコンテクスト(文脈・背景)は限りなく小さくなっている。そうした現状を踏まえ、コンテクストを共有しない間柄で、どのような表現をめざすかを語り合った。この問いに対して私は、すでに前節で述べたとおり、多数の私性の包摂が切り開く公共性においては、個別的であるが(ゆえに)普遍的であるような表現が花開くとみている。
社会というテーマのなかで、組織やコミュニティについても考えた。弟と私は、それぞれ結社とNPOに所属し、運営にも深く関わっている。ふたりとも、だれに強制されたわけでもなく、生計を維持できるほどの収入を得ているわけでもない。自発的に対価を求めずに活動に参加している。だから、私たちの活動は「好きにやっている」ように見える。実際、自由意思に基づいて参加しているのだから、そう見られても否定できない部分はある。
しかしながら、私の意識は、自由に選んだはずなのに、不自由なのである。不自由と書くと誤解を与えるが、コミュニティの共同性にあえて没入することから得られることを得るために、そうした制約のある環境に身を置くのである。もし私たちが紡ぐさまざまな関係が、すべて自由に選択でき、取り替え可能であったならば、関係性の座標軸を定めることができずに自分を見失うことがあるだろう。つまり、私は自由な関係の良いところだけを得ることはできないと考えているので、何か深入りする関係を手掛かりとしたいのである。20代前半はそれが小劇場劇団だったし、30代からはそれが環境NPOである。
現在、メールマガジンの配信に合わせてこのコラムを書いているが、毎月書き続けることは容易ではない。ときには愚痴をこぼしながら、ときには意地になって書き続けてきた。誰からも指示されず、書かなくても文句を言われることもないのに、私はこれをNPO代表者としての義務のようにとらえている。この苦行を続けてきたことによって、自分の思想は鍛えられてきたし、その積み重ねがNORA理事長という立場を支えてきたように思っている。
人によっては、没入する対象が地域コミュニティであったり、会社組織であったりすることもあるだろう。しかし、強制参加型の地域コミュニティは、価値観の多様化やライフスタイルの変化とともに、自由選択を基調とした現代社会に合わなくなっている。また、典型的な会社組織は利潤の追求を目的とするので、個人の人間的な形成を図る場との両立は構造上難しいと言えるだろう。それらと比較すると、テーマ型コミュニティ(=アソシエーション、結社)は、あえて不自由な関係を結ぶことで、人と共に生きるときに伴われる喜怒哀楽を味わう場として、私には魅力的に映るのである。
一方、弟が所属している短歌結社は、主宰者や先生と呼ばれる人たちを中心に師弟関係に基づく集団である。一般にNPOは民主的に運営される組織であるのに対して、結社は指導する側-される側の関係を軸にしているので、たとえば、民主的に人事を決めるのがよいわけではない。結社のなかには、投票制で人事を決める団体もあるらしいが、そのような運営方式が文学的に良いかどうかは別の問題であり、議論があるとのことである。なお、一般に同人誌とは師弟関係のない同好の集団であり、多くは同世代の集まりである点が、結社との違いであるようだ。
弟の場合、この絶対的な関係のなかに自ら飛び込んだのである。自由に好きな人たちだけで集まって短歌を作る同人誌ではなく、明確な師弟関係があり、多様な世代がいる結社に身を置く方が、創造的に表現できると考えたのであろう。結社と同人誌を比較することは、コミュニティと学びの関係について考えることにもつながるように思う。
3.場所
3つめのテーマには場所を選んだ。私が里山保全運動に参加するようになった理由として、身近な地域のなかにある場所性への気づきが大きかったからである。また、里山に限らず、私は具体的な時間と空間にこだわって考えを深めることに面白さを感じており、弟の表現にもそうした面が見られることから、3つめの場所に対応するように4つめのテーマには歴史を選んだ。
さて、弟は大学を卒業後、20代の間に岡山、金沢、函館、福島、大分と、地方都市を転々とした。それは、昭和初期に開発された東京郊外の町で育った弟が、東京から出て行こうと決意し、「結婚しない・就職しない・定住しない」と誓いを立てて、自らを試したのである。しかし、弟の場合、東京中心にものを見る見方を相対化することが目的だったため、居を定めた町の場所性に深入りすることはなかった。
小説家になることを志していたが、それもかなわずに焦燥感が増していくなかで、函館に住んでいるときに出会ったのが石川啄木であった。短歌を詠むようになり、毎日新聞に投稿を始め、当時、選者であった河野裕子さんが目を止めてくださった。本気で短歌による表現を目ざすならば、新聞上での入選に満足するのではなく、短歌結社の世界に入ることを勧められた。河野さんによる勧めがなければ、歌人・松村正直は生まれていなかったに違いない。
ともあれ、引っ越しを繰り返していたときの弟は、東京一極集中に対する違和感や問題意識を抱いていたものの、「定住しない」ことを自らに課したように、場所は表現上の主題ではなかったように思われる。それが、古い短歌を読むなかで、歌人がどのような時空間に身を置いて歌を詠んだのかを想像をめぐらすようになり、歴史的な関心とともに場所についても深く考えるようになったようだ。
一方の私には、弟が相対化しようとした東京郊外を見つめ直すことから、自分の場所を見出した経緯があった。私は大学卒業後、環境コンサルタント会社に勤め、屋久島、阿蘇、八幡平など、自然豊かな地域で環境調査をおこなった経験があった。退職後、市民活動団体が守っているという横浜市内の谷戸を初めて訪れたとき、その生態系が思っていたよりも貧弱であることに驚いた。すぐ近くにまで新興住宅地が迫っており、谷戸もかなり埋め立てられて原形をとどめていなかった。なぜ、この程度の自然を守ろうとしているのか、にわかには理解できなかったのである。しかし、その郊外の谷戸を守るために、主婦を中心とした市民側は地主さんや行政と粘り強く話し合い、谷戸の改変を辛うじて食い止めてきたという。そうした物話を聞くにつれて、私の気持ちは変わっていった。その土地に秘められている活動の歴史を思うと、その谷戸を愛して集い、汗をかいている人たちの実践におのずと惹かれたのである。それ以来、私は豊かな自然だから、その場所を人びとが守るべきだという考えよりも、むしろ、その場所を人びとが守りたいと思うから豊かな環境なのだと考えるようになった。
これは、地理学における空間(space)と場所(place)という区別を想起させる。均質で透明な「空間」に対して、固有の思い出や意味に彩られたところは「場所」と呼び分けるのだ。コンサルタント時代には、もっぱら空間の評価に基づいてそのあり方を検討していたが、郊外に残る谷戸を熱心に守る人びとと出会い、社会における場所の重要性に気づくことができた。その経験から、幼少期と比べて大きく変わった多摩丘陵の里山が、その後の私の大事な場所になったのである。
4.歴史
弟には、『短歌は記憶する』(2010年)、『樺太を訪れた歌人たち』(2016年)、『戦争の歌』(2018年)という文学(短歌)批評と歴史社会学のあいだを縫うような歌書がある。社会を映すメディアとして短歌を捉えれば、短歌を通して歴史的に社会を見ることができる。しかし、歌人である弟はそのように短歌を扱うだけでは満足しない。これらの本では、歴史社会学的な分析も加えられているが、主題はその先にあって、戦前・戦中・戦後といった社会的磁場・制約下にあって、個々の歌人たちが表現した文学の力を救い出そうとする。このために、文中に取り上げられるのは過去の歌だけれど、問題意識はきわめて現代的に映る。空気を読んで口を塞ぎがちな今日の社会的な表現のあり方についても、考える材料を提供してくれる。
『樺太を訪れた歌人たち』のあとがきで、「なぜ、樺太か」という問いに対して、弟は「鎮魂」とだけ答えている。そして、「鎮魂と言っても亡くなった方々への追悼という意味だけではない。戦前の樺太に暮らし、樺太という土地に様々な夢を描いた人々の思いは、敗戦によって断ち切られてしまった。それらを何らかの形で受け止めて、鎮めることが必要なのではないかと感じたのである」と言う。
人は2度死ぬと言われる。1度目は肉体が生命を終えたときで、2度目はその人が忘却されたときである。私も50歳を過ぎて、人生の長さ/短さについてときどき考える。1度目の死を迎えることは避けられない。しかし、2度目の死が、1度目の死と間を置かずに訪れるような社会では、死ぬのが惜しくなる。だから、死に/生き甲斐があるような社会であって欲しい。名を残すような人ではなくとも、多数の無名人であっても、その人が力いっぱいに生きた人生・生命が人びとから愛される社会に生きたいと願う。そうした私の願いは、弟の言う鎮魂という言葉と響き合う。
私は、八重山諸島の開拓集落へ移住した人びと、長崎の離島に住むカネミ油症の患者さん、多摩ニュータウン開発初期に入居したアクティビストなどに、ライフヒストリーを聞き取ってきた。私の社会学的な関心は、戦後日本社会の一断面を自分の視点から記録しておきたいということにもあるが、それよりも、収集した個別具体的な人生の記録を受け止めて、今後の社会のために生かすことにある。社会の個人化が進行するなかで、そうした人びとの生きた証が大切に扱われる社会へ向かうことができるのだろうかという問いが、現在の私の切実な問題意識である。
この問いに対して肯定的な答えを求めることは、時の流れに逆らうようで、到底不可能なように思われるかもしれない。しかし、私は絶望してはいない。東大の渡邉英徳先生による「記憶の解凍」(AI技術を活用して白黒写真をカラー化し、過去の記憶を生き生きとみがえらせる)プロジェクトは、広島の高校生との共同研究により進められてきたが、意外にも高校生たちは最新のAI技術よりも被爆者と同じ写真を眺めて話を聞くことに熱心だという。その話を聞いてから、個人化していく社会を既定路線と考えるのではなく、名もなき人びとの歴史から学び、小さき人びとが愛される社会へと向かえるはずだという希望を離さない。
5.表現
弟の短歌には、どこか人を食ったようなところがある。たとえば、今回の対談に合わせて寄せてくれた自選10首には、「抜かれても雲は車を追いかけない雲には雲のやり方がある」「踏切に列車過ぎるを見ておれば枕木はふかく耐えているなり」といった歌がある。たしかに、面白く感じられるけれども、究極的に何を目指しているのかがわからない。そこで、短歌を通して何を表現したいのかと尋ねてみた。
すると、それは愚問だねというように、次のように答えてくれた。すなわち、何か具体的に表現したいものが見えているから言葉で表現するのではなく、言葉に表すことで逆に見えてくるものである。また、短歌では31文字をそのまま読んでわかる内容を表現したいわけではなく、その言葉から感じられることや映し出されるものなどを表現したい。そうした言葉にならないものを示すには、言葉でしか伝えようがないから言語表現に頼っているのであるという。たしかに、そう説明されてみると納得できる。
ある参加者は、弟と私の表現に共通性を見出してくださった。つまり、弟は日々の生活のなかで見落とされていること、気に留めないことに対して、私は社会のなかで忘れられていくもの、制度からこぼれ落ちるようなことに対して注意を向けて、救い取ろうとしていると。すでに述べたとおり、そうした関心を共有しているという信頼が私にはある。
別の参加者からは、弟と私には共通点が多いが、弟の短歌は個人的な表現であり、私の里山保全はコミュニティによる表現という違いがあるのではないかと指摘された。それに対して弟は、短歌とは読む人がいて初めて成立する表現であると答えて否定した。これは、短歌が31文字という短型詩であるために、読み手側に幅を持った解釈を許すことが前提とされている。だからこそ、言葉だけでは表せないことを表現できるという特長があるのだろう。この質疑においても、弟は短歌表現に対する考え方を明確に示した。
一方、私もまた、里山がコミュニティによって保全されてきたことを認めつつも、人間だけの共同制作によるものではなく、人間と自然の共同制作であるという考えを伝えた。自然が相手だと、人間側の思い通りにならないことも多い。それでも、自然に手を入れるのは、それなりの見返りがあるからである。これは、インプットがいくつの場合、アウトプットがこれだけ出てくるというような工学的な世界ではない。不確実性を含み、ときには努力がまったく報われないこともある。それでも、すべてが思うようにはならないけれども、力を尽くせばたいていは相応の実りがあるといった適当な塩梅があるように思う。私の考えでは、この世界の多くは、こんな風に良い塩梅のバランスで成り立っているから、里山に手を入れる経験を通して、世界との向き合い方を学べるのである。
戦後、政治か文学かという論争があったように、政治と文学には通じるものがある。NPO活動は政治運動ではないが、どこに力を与えるべきかを考えている点では、広い意味で政治的だと認識している。NORAの場合、それを文化的な活動を通して表現しようとしている。
短歌と環境運動との関係で言えば、環境派におなじみの松下竜一、石牟礼道子などは、短歌も作っている。緩いテーマによる自由な対談は今回限りとする予定だが、今後何か企画するならば、このあたりの接点をもとにテーマを絞って考えてみたい。
(松村正治)
→参考ページ「兄弟対談で考えたこと」