第72回 生きた事実を確かなことに

2025.3.1
雨の日も里山三昧

2023年夏に母、秋にいとこ、2024年冬に義母、夏に伯父、そして先月、伯母が亡くなった。
伯母が亡くなったことは、弟からのメールで知った。
昨年夏から、私が父の通院に付き添っていることもあって、京都に住む弟が、毎日、父に安否確認を兼ねて、電話をかけている。
弟のメールによれば、伯母が入居していた施設の方から父宛てに訃報が伝えられたとのことであった。

昨年11月、伯母は板橋区の施設から埼玉県深谷市の施設へ移ったと聞いていたので、介護度が高くなったのだろうとは想像していたが、突然の知らせだった。
その先を読むと、伯母の子どもたちは先妻の子であるためか完全に疎遠になっており、父は何かあったときに動ける体ではないので、火葬や納骨などは施設側でやってくれる話になっていると書かれていた。
私は父方の親戚とはほとんど交流がなく、亡くなった伯母とも生まれてから4-5回しか会っていないし、最後に会ったのも20年ほど前のことだ。
それでも、亡くなるときにはそばにいたかったし、ましてや、身寄りのない者として扱われ、骨を拾ってもあげられないのは寂しすぎる。

翌日、私は最期にいた施設に連絡を取ると、伯母が生活保護を受けていたこと、父に訃報を知らせたのはケースワーカーであったことを知った。
すぐに、担当のケースワーカーに連絡を取ったところ、火葬の立ち会いや遺骨の引き取りはしないことを父に確認を取ったというので、両方とも撤回してもらった。
父には、なんでそんなに大事なことを相談してくれなかったのか、病気で自分が動けないからといって、お姉さんを無縁扱いにするなと、輸血中でベッドに横たわる父に対し、震えながら怒った。

火葬は2/21(金)9:00に群馬県伊勢崎市内(!)の斎場と決められ、変更できないというので、当日は早く起きて妻と火葬に立ち会い、遺骨を引き取った。
帰り道、伯母が最後の過ごした施設を訪ね、愛用の眼鏡や写真、お連れ合いの位牌などの遺品を持ち帰ることができた。

故人を悼む、弔う、偲ぶことは、これまで家族や地域、会社などが担ってきたが、地縁・社縁が希薄化して、血縁が先細りする無縁化社会にあって、人の生きた証しが、あっさりと処分される社会に、ますますなっていくだろう。
その趨勢は変わらないだろうが、それを当然と受け入れて生きるのは耐えがたい。

この世に生を享けた私たちは、等しく必ず死んでしまう。
最終的には死に至るという事実をわかって生きるためには、私は弱いから、自分独りでは寂しい。
自分が独りでいられないから、周りの人も独りにしてはいけないと思う。

後から知ったことだが、伯母にはすでにお墓があった。
先に亡くなったお連れ合いと一緒に入るために購入していたのである。
そのことを知っていて、なぜ父は伯母の遺骨を引き取ろうとしなかったのだろうか。

私の憤りに対して、弟はもっともだと理解をしつつも、父にも寄りそって、次のような解釈をメールで示した。
「父としては自分が(病気で)動けないことや、もともと父方の親族と私たちは関わりが薄かったこともあり、頼ることができなかったのでしょう。」

たしかに、現在、父は不治の血液のがんに罹っていて、どんどん体が弱ってきている。
生きていくためには、定期的な成分輸血を欠かすことがない。
赤血球が不足しているので、しばしば貧血によるめまいや立ちくらみにより、身体が硬直したり転倒したりしてしまう。
父からすれば、身体が自分のものではないように思うようにならず、何かを前向きに考えることもできず、何もしようと思えないのだろう。
また、弟の言うとおり、これまで関係が遠かった伯母のことで、私たちを頼れないと思っていたという推測も、その通りだろう。
それでも、私はなぜなのだろうか、と考えてしまう。

そこで、もう少し父の人生に寄りそって、掘りさげてみたい(ここから先は、弟のブログ「父と過ごす時間」も参考にした)。

父の生い立ちは複雑だ。
父の母(私の祖母)は、父が5歳の時に結核性の腹膜炎で亡くなった。
その後、消防士だった祖父は2人の後妻を迎えた(1人目はすぐに離婚)。
父には兄・姉・弟がいて4人きょうだいだったが、そのほかに継母の連れ子2人と、新たに生まれた異母きょうだいが2人、合わせて8人の子どもがいた(後に2人目の後妻とも離婚)。
中学卒業後、父は集団就職で秋田から東京に出てきて、業務用冷蔵庫の製造・販売・修理の会社で働いた。
二十数年働いたところで、まだ若かった社長が交通事故で亡くなり、たちまち経営が傾いて会社が倒産。
関連会社に勤めたものの、業務縮小により解雇された。
その後、企業のメール便配送の仕事をして、最後は特別支援学校のスクールバス介助員を80歳まで勤めた。
15歳から80歳まで65年間、ほぼ働き続けた人生だった。

小学校の中学年くらいから両親は仲が悪くて、母は父がいると怒鳴るか、徹底的に無視していた。
私はふたりが仲直りできないものかと考えたり、中学・高校の頃には、復縁のために工作したりもしたが、すべて無駄だった。
だから、高校3年の時に両親が離婚したときは、もう家族であろうと思わなくてよいと思えて、肩の荷が下りた気分になった。

一昨年の夏、父に人生を振り返って話を聞いたときのことが忘れられない。
父は最近知った「親ガチャ」という言葉に自分を重ねていた。
自分を生んだ母親のことは、ほとんど記憶にないらしいが、「お母さんに会いたい」と父が言ったとき、私は胸が詰まった。
また、母との結婚生活については「最悪だった」とふりかえった。
それを聞いた私は、話を変えることもできず、ただ黙り込んでしまった。

私がこうして父のことを書こうと思うのは、これまでの父の人生を変えることはできないけれど、それを神様や周囲に翻弄されただけの人生だったかのように嘆くのではなく、主体的に自分の人生を生きた部分もあり、この世界で会えて良かった人もいると思うようになって欲しいと願うからだ。
しかし同時に、今年85歳になる父の考え方は変わらないだろうとも思う。
自分が生まれついた家族に対して、さらに自分が結婚して築いた家族に対しても良い思い出がなく、まったく思うようにならない人生だったと捉えているのだから。
伯母の死に際して、どこか自分事としてとらえずに他人任せにしてしまうことも、なぜなのかと憤るとともに、その行動を理解できるような気がする。
それでも、このような考えに至ってもなお、私は父に対してもっと自分の思うように自分を生きようとしてほしいと願ってしまう。

こうしてループが繰り返される。
だから、今はこう考えている。自分の人生の見方が変わらない父がいて、それを変えようとする私がいる。
ふたりのコミュニケーションは深まらない。
しかし、それは止める必要がないし、止めない方がいい。
なぜなら、その私のいらだちが、父の人生の痛みを表すことになり、父が生きた事実を確かなものにするのだから。

(松村正治)

雨の日も里山三昧