第89回 佐々木実『資本主義と闘った男―宇沢弘文と経済学の世界』

2019.6.1
雨の日も里山三昧

佐々木実『資本主義と闘った男―宇沢弘文と経済学の世界』(講談社、2019年)

本書は一般的にも高く評価されるに違いないが、私の場合、おそらく平均以上に響くものがあった。読んでいる間、青春時代が思い出され、久しぶりに恩師と再会したような感覚を抱いた。

本書は、宇沢弘文について書かれた分厚い評伝であるとともに、宇沢の視点から見えた戦後の近代経済学史としても優れている。
1956年~68年、宇沢がアメリカのスタンド度大学やシカゴ大学で教鞭をとっていたとき、彼は理論経済学の最先端にいた。このため、当時、宇沢が交流した経済学者には、ロバート・ソロー、ケネス・アロー、レオニード・ハーヴィッツ、ジョーン・ロビンソン、ミルトン・フリードマン、ロバート・ルーカス、ジョージ・アカロフ、ジョセフ・スティグリッツなど、のちにノーベル賞を取った者がゴロゴロいた(政治色が強かったロビンソンは、辞退する恐れがあったために受賞を逃したという憶測がある)。このため、宇沢がアメリカに残っていたならば、ノーベル経済学賞を受けたと言われている。宇沢弘文という一人の経済学者の評伝であると同時に、近代経済学の歴史も概観できるのは、経済学の数学化が一気に進んだ1950-60年代に、宇沢が理論経済学の中心にいたことを如実に示している。

宇沢弘文を初めて読んだのは高校時代だった。公害・環境問題研究の古典の一つ、『自動車の社会的費用』(岩波新書、1974年)である。
当時、原発問題や地球環境問題に関心を持っていたが、文系科目が苦手だったため、こうした社会的な問題に対して理数系からアプローチできる方法はないものかと探し求めていた。そんな私が、当時憧れに近い感情で惹かれていたのは、高木仁三郎、槌田敦、宇井純などで、その中に宇沢弘文もいた。彼らは、自然科学の美しさを愛する一方で、科学を社会に応用する際に生じる諸課題に向き合い、安易な科学志向、職業専門家への依存を批判していた。
宇沢は私が大学に入った年に退官した。その前年だったのだろう、宇沢が総長選に出たことを覚えている。私は密かに選出されることを期待していたが敗れ、1989年に有馬朗人が総長に就任した。

『自動車の社会的費用』は、自動車を走らせるために生じる社会的費用を貨幣換算して見せたもので、その環境経済学的な手法はシンプルで議論もわかりやすい。具体的に言えば、運輸省(現・国土交通省)は自動車の社会的費用を1台当たり7万円と試算したのに対して、自動車工業会は一台当たり7千円と主張する。これらに対し宇沢は、社会的共通資本(森林・大気・水道・教育・報道・公園・病院など、「ゆたかな経済生活を営み、すぐれた文化を展開し、人間的に魅力ある社会を持続的、安定的に維持することを可能にするような社会的装置」)に与えた損害を計上すると、1台当たり200万円に及ぶという。しかし、これは近代経済学的に環境の価値を計る際には、その手前の思想や価値観の問題が大きいことを示すという論理構成となっており、市場主義的な経済学的アプローチの限界を突きつけている。私は、この外部経済の内部化という操作が孕む問題の深さに気づき、経済学的手法の面白さと限界を理解することができた。

本書の中で、特に印象的な場面が2つあった。
1つは、マッカーシズムの余韻が残るなか、ベトナム戦争へと向かいつつあった1960年のアメリカで、同僚に向けて激しく政府批判を展開したとき、「君は共産主義者なのか?」と問われて、思わず怒りにまかせて「Yes, of course!」と肯定してしまったこと(もちろん共産主義者ではなく、政治活動にも関与していなかった)。
もう1つは、三里塚で空港建設に反対していた農業青年たちに依頼され、その若者たちの真っ直ぐな熱意にほだされて、成田空港問題シンポジウムを主催した隅谷調査団に加わった後、次第にのめり込んで結果的に彼らの思いと距離が生じていくところ。

どちらも気持ち的にはわかるし、青臭いところも魅力的ではあるが、大人の振る舞いとして適当ではなかったと思う。
ただし、こうも思うのだ。
つねに常識のなかでのみ思考し行動していては、凡人の域を出ない。普段は自制して、押さえ付けているエネルギーを、解放することができるからこそ、優れた仕事ができるのだろうとも思う。
しかし、そうした才能は、周囲に迷惑をかけることもまた多いのだ。
晩年、宇沢が経済学徒から敬遠されていたという話にも考えさせられた。

本書の著者は、2013年に竹中平蔵の評伝『市場と権力―「改革」に憑かれた経済学者の肖像』を出している。大宅壮一ノンフィクション賞と新潮ドキュメント賞を受賞しており、私も面白く読んだけれど、ほとんど共感を覚えることができなかった。それと比べると、宇沢弘文は若い頃に強く感化されたので、全編楽しく読むことができた。

1990年代の半ばころから、宇沢がグローバルな温暖化問題に取りかかり、社会的共通資本論を本格的に展開するようになったあたりから、私はあまり宇沢の文章を読まなくなった。その頃には、環境社会学への関心が深まり、ローカルな現場から環境・社会の問題にアプローチするという方法へと、関心が傾いていた。くわえて、この頃には、特別な誰かの思想に頼らず、自分の頭で考えることを始めていったのだと思う。

その頃から四半世紀が過ぎた。
本書を読み通して、晩年の宇沢の孤独に心が揺さぶられ、宇沢の問題意識を受け継ぎたいと思った。あらためて、社会的共通資本論を読み直したいと思った。
現在の私が、宇沢の文章を読んでどう感じるのか、楽しみである。

(松村正治)

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