寄り道40 水俣で見聞きしたこと、考えたこと(2)

2019.5.1
雨の日も里山三昧

前回(→寄り道39)続きで、3月24日(日)~27日(水)に水俣で見たこと、聞いたこと、考えたことを報告したい。

3月25日(月)夕方

夕方16時、水俣の魚を車で移動販売している中村雄幸さんと「おれんじ館」でお目にかかった。中村さんと会いたいと思ったのは、昨年見た『しえんしゃたちのみなまた』というドキュメンタリー映画に登場していて、すっかり惹かれてしまったからである。お連れ会いの藤本寿子さんが水俣市議であるため、選挙間近でお忙しいにもかかわらず、1時間半ほどお時間を割いてくださった。
中村さんは、1974年に相思社の設立時のメンバーであった。その後、14年間スタッフを務めてから魚屋さんに転職して31年になるという。この間のご自身の実践については、挫折の経験と繋げてお話しくださった。
1つめは下関水産大学校での学生運動の経験だった。学生時代、一週遅れの大学紛争が地方の大学に及んでおり、中村さんは運動に参加したが、挫折した。苦悩して行き場がなかったとき、友人に誘われて水俣を訪ね、茂道集落の杉本家で3日ほど漁を手伝った。
中村さんは新潟県の現在の上越市に生まれ育った。山の中の集落であったので、海への憧れが強かったという。小学生のときに初めて海を見たこと、中学時代の臨海学校の思い出、そして水産大へ進学した。学生運動に疲れた中村さんは、杉本栄子さんとの出会いに救われた。水俣が「俺の下り場所」となった。
相思社の立ち上げ時は、患者さんと共同で何かできることはないかと試行錯誤した。「農業をやる」と言って、野菜を生産したり、加工品を販売したりしたが、頭でっかちで経験は何もなかった。患者さんたちが甘夏栽培を始めた頃だったので、水俣病患者家庭果樹同志会の事務局を担当した。養鶏は困難とわかってやめ、キノコ栽培に着手した。現在の水俣病歴史考証館は、このキノコ栽培小屋を改装したものである。
中村さんは、食産部門に所属して、もっぱら堆肥づくりに励んだ。牛糞と鶏糞を半分ずつ混ぜて切り返し、段階的に発酵させ、できた堆肥を急傾斜のミカン畑に撒いた。この仕事を約7年間続けた。好きな仕事だった。畑にはモノレールが設置されているので、堆肥を運ぶのに利用できるのはよいが、それから広い面積に運んだ堆肥を撒くのが重労働だった。
患者さんは全量引き取ってくれる農協に出荷していた。相思社が勧めるような低農薬栽培を導入したのは1世帯だったが、全国に消費者が付いてきたことで、農協よりも高く買い取ることができるようになり、30世帯以上まで増えた。
一方、水俣湾ではヘドロ処理が進められていた。しかし、この工法のあり方に対して疑問を感じていた。そこで、湾内の汚染魚の調査、干潟の生きもの調査等を実施した。不知火海の海のすごさに取り憑かれた。どんな海なのか、この海をどう表現できるのかと考えた。この海ともっと深く関わりを持ちたいと思い、水俣病との関係は伏せて、対岸の島じまへ渡り、生業、食、交通などの島の暮らしについて聞き取り調査をおこなった。いつから集落ができたのか、村の成り立ちを長老から話を聞いた。すべて漁業と密接に関係していた。
県のヘドロ処理に反対しても、工事は進んでいく。水俣湾の魚は危ないと言うけれど、人びとはみな食べている。「危ない」と言っても通っていかない世界。ここで2つ目の小さな挫折を経験した。しかも、自分もまた水俣の魚を食べていた。
患者さんの支援について、自分の中で行き詰まっていた。そうしたときに、土本典昭監督が「不知火海の魚を食べて、うんちして、水銀を減らそう」と言った。この言葉に納得した。
水俣湾が汚染されても、水俣の人は暮らしを変えることがなかった。そういう人びとの中に入って、自分を見つめていきたい。しかし、今から漁師になることは難しい。こう考えていると、患者さんのなかで魚屋さんを辞める人がいたので、その人の仕事を引き継いだ。
石牟礼道子さんから紹介された魚屋さんで、調理の仕方などの基本を修行した。お客さんは、患者さんや支援者さんの口コミで徐々に増えていった。漁師の患者さんは、魚には困っていないはずだったが、買い支えてくれた。
水俣では漁協の組合員が全盛時に約80名いたが、いまは20名ほど。魚屋は7-8名いたが、いまは中村さん1名のみだという。不知火海は全域的に漁獲量が減っているが、水俣の減り方は著しい。この主因として、約60haの干潟を埋め立てたことがあるだろう。
写真家の尾崎たまきさんは、再生された水俣のきれいな海を撮影している。海の透明度が高くなり、サンゴが増えている様子が映っている。しかし、中村さんが言うには、「豊かな海ときれいな海は違う」。プランクトンが減って、魚も減ったのかもしれない。
水俣では、最近になってカキやアオサの養殖が始まった。しかし、津奈木や芦北では、以前からブリ、タイ、トラフグなどの養殖が盛んだ。水俣で養殖がなかったのはなぜだろうか。これは、中村さんが関心を持って考えている問いである。この問いに対して、2通りの答えを用意されている。1つは、養殖するまでもないほど水俣の海が豊かだったから。もう1つは、水俣の漁業は小規模で、資本が十分に蓄積されていなかったから。
正しい答えはわからないが、水俣の漁業が衰退しているのは確かである。魚屋として、このまま座して死を待つのは避けたい。何かしたいけれど何をすればいいのかと考えている。無理を承知で言えば、一定期間、魚種にかかわらず水俣湾での漁獲を禁止にして、自然の力で海を回復させること。これが、水俣の海と魚を考え続けてきた中村さんの夢だという。
最近、中村さんが取り組んでいることは、漁師の聞き書きである。学生運動に敗れ、不知火海に魅了された若者は、年を重ねてもなお、自分を引き付けるこの海を表現するために、歩みを止めていない。

3月25日(月)夜

予定していた時刻になり、中村さんと別れ、一般社団法人水俣病を語り継ぐ会の事務所でもある吉永さんの自宅へ戻った。すでに、妻の理巳子さんが夕食の用意をされていたので、すぐに3人でテーブルを囲んだ。
理巳子さんは、漁師の祖父、チッソ社員の父を、劇症型の水俣病で亡くしている。しかし、水俣病が嫌で恥ずかしくて、40年間家族のことを話すことができなかった。それが、水俣病と向き合えるようになって、1997年から水俣病資料館の語り部として活動されている。この経験の語りは、NHK戦後史証言アーカイブスで閲覧できる。
理巳子さんは、子どもの頃に明神崎の海辺でよく遊んだ。かつては細長い岬だったが、干潟を埋め立て公園にして、水俣病資料館など諸施設が建てられた。国に土地を売るときに反対していた人たちもいたから、せっかく作った資料館は大事に活かして欲しいという気持ちを強く持っている。しかし、水俣市は患者さんに遠慮しているのか、どのように活用したいとうビジョンが見えないと言う。
理巳子さんは、患者・家族としての経験を語る「語り部」の活動のほかに、石牟礼道子さんの作品などを朗読して語り継ぐ活動もおこなっている。利夫さんは、語り部活動を補助する「伝え手」の活動や、理巳子さんとともに朗読もされている。利夫さんの仕事は、簡単に言えば、水俣で何かを学びたい人に向けて、人や場所などを案内したり、紹介したりする教育コーディネーターであろう。相思社を辞められてからは、一般社団法人環不知火プランニングを立ち上げ、この地域だからこそ学べる教育・研修プログラムを企画し、積極的に修学旅行を誘致した。もちろん、この中で水俣病の学習は重要だが、一次産業の体験、リサイクル工場の見学、農家民宿などにも力を入れて、着地型観光を開発した。現在、この仕事からは離れて、水俣の経験から何をどう学ぶのか、そのための人材育成、教材づくり、ネットワークづくりなどを中心に活動を展開されている。
この日の夕食では、このような水俣らしい話に終始したわけではなく、3人とも当事者である離婚に話が及んだ。それぞれが現在地をよしとして生きているが、それぞれ小さくない傷を負って生きている。そのことを、水俣病の患者や支援者というカテゴリーとは別次元で共有でき、人間としてのつながりを感じた

3月26日(火)

9時半、九州新幹線の高架下にある「ほたるの家」を訪ねた。この日の午前中は、谷洋一さん・由布さん親子とアポを取っていた。先にお話しをうかがったのは谷由布さんである。私が働く恵泉女学園大学のOGでもあるので、一度お目にかかりたいと願っていた。
まず、由布さんには、患者さんの憩いの場である「ほたるの家」「遠見の家」を運営するNPO法人水俣病協働センターの目的や経緯などをうかがった。胎児性・小児性の水俣病患者さんの地域生活を支援しているが、抱えている症状には違いがあり、その症状を本人が表現できない場合も多い。だから、症状を診ることは簡単ではなく、丁寧に診ることが必要である。また、これまで胎児性・小児性の患者さんは親御さんが面倒を見ることが多かったので、他者を受け入れることが難しい人も多い。
課題は、ここでも人で不足である。ヘルパーや訪問看護が入るようになっているが、水俣病について理解して支援できるスタッフは少ないという。患者さんは誰でも受け入れられるわけではなく、代えがきかない場合もある。患者さんが特定の支援者に依存的になることもある。だから、順繰りに回せない。
患者さんの健康、生活にかかわることなので、いつでも対応することが求められる。一方で、身内のようになると冷静になれないことがあり、これは患者さんにとっても良くないかもしれないという。
由布さんは、胎児性水俣病患者の坂本しのぶさんが、外で話しに出かけるときに付き添っている。しのぶさんは、講演の最後に「水俣病は終わっていない」と言う。まだ、裁判も係争中であり、被害を認められていない人も多い。そして、水俣病を「過去のこと」と思っている人は多い。だから、今もある、そうなんだと思ってもらうだけでもいい。話を聞いた人の中から、裁判の傍聴に来る人もいて、ありがたいと思うという。
由布さんも、中高生や学校の先生に向けて話すことが多い。人権や環境など、どういう言葉を使って話すと受け止められるのか、記憶に留めてもらえるのかを真摯に考えている。しのぶさんが「チッソは許せない」と言うと、周囲は「チッソも大変だった」とは言えない。しかし、由布さんは患者という立場ではない。
しかし、これまで国や企業によりもたらされた不条理を、患者さんは一方的に押し付けられてきた。その構造は、いま現在も変わっていない。そのことを伝えために、具体的な患者さんの様子を話すように心がけているという。たとえば、裁判を闘っている患者さん、感覚障害があるために熱い飲み物を飲んで喉を火傷する患者さん、目で見ないと服のボタンをとめられない患者さん。幅広い被害の実相を伝えるようにしているという。

由布さんから1時間ほどお話しをうかがった後に、お父様の谷洋一さんからお話しをうかがった。洋一さんは、NPO法人水俣病協働センター理事、水俣病被害者互助会事務局として、患者さんの在宅支援、裁判支援、水銀条約に関わる仕事などをされている。この3月は、福岡高裁2件、熊本地裁1件の裁判があり、証人尋問等の準備に追われている中、貴重なお時間をいただいた。
2004年の関西訴訟の最高裁判決では、国・県の責任が認められた。1995年の政治的解決を拒み、裁判を継続した意義は大きかった。この結果自体は良かったものの、その後は救済制度をつくるべき行政が患者さんに対して全面対決の姿勢となり、学会も巻き込んで、病像論で闘おうとしている。裁判に負けても、それは一部の例外として扱おうとしているという。
一般に、水俣では1995年の和解以降、「もやい直し」が進められたと言われるが、国・企業は「責任を取れよ」という声もある。行政と連携しながら動いている団体もあれば、外部に向けた情報発信が得意な団体もある。そのなかで谷さん親子は、患者さんに近いところで、求められる活動をおこなっている。多くの訴訟にかかわってきた経験から、司法は「体制維持の道具」であると認識しつつも、裁判支援に奔走している。

正午に辞去し、昼食後に水俣病資料館を訪ねた。副館長の草野徹也さんと熊本大学大学院生の佐藤睦さんから、この資料館の経緯、資料活用の現状や課題について、1時間ほどお話しをうかがった。その後、時間をかけて資料館を見学し、館内にある資料を閲覧していたら、思いのほか時間が経ってしまった。
日が傾くなか、乙女塚に赴いた。例年5月1日、公式確認の日に合わせて、エコパーク水俣親水緑地では水俣病犠牲者慰霊式が営まれる。一方、水俣病互助会主催の慰霊祭は、1981年に舞台俳優の砂田明さんが建てた乙女塚の前で執り行われる。今年は新天皇即位日と重なるため、慰霊式は10月に延期されることになったが、乙女塚慰霊祭は例年通りに実施するという。

水光社は、もともとチッソ水俣工場の購買部だったが、現在は水俣市内だけでなく、隣の津奈木町や熊本市にもお店を構える大きな生活協同組合となっている。ここで、夕食用のつまみを買い込み、18時頃、愛林館に沢畑亨さんを訪ねた。夕闇が迫るなか、見事な石積みの棚田や、植林した木が大きくなった様子をご案内いただいた。今回は、研修生として愛林館に宿泊したので、こうした「研修」を受けることが必要だったのだ。

3月27日(水)

前日の夜は沢畑さんと、水俣のことに限らず、音楽、スポーツ、温泉の話題で盛り上がった。そのとき勧められた岩の湯(芦北町湯浦)で朝風呂に浸かり、9時に相思社を訪ねた。
相思社では、『みな、やっとの思いで坂をのぼる』の著者・永野三智さんにお話しをうかがった。永野さんは、上着を着たまま、視線を合わせようとはせず、ぽつぽつと語る。それは、自分を外に開き過ぎないことで、内から生まれてくる言葉を、損なわないようにしているように感じられた。この言葉の使い方への繊細な心遣いが、書かれた文章によく現れている。だから、そうした語り方がごく自然に思われ、その話す姿に納得していた。
永野さんのお話しは多岐にわたったが、大事にしたい価値に重なる部分が大きいようで、何を話してもしっくりきた。娘さんの病気から永野さんが考えたことと、母の病気から私が考えたこと。洗濯には合成洗剤を用いず石けんを使う家庭で育った永野さんが、子どもの頃に考えていたことと、一年中半袖・半ズボンで過ごしていた私が考えていたこと。あるいは、自分では納得していないことにも、周りに流されて同調してしまう弱さ。その弱さをすぐには乗り越えられなくとも、自分の成長を信じた年月。もちろん、状況は違うけれども、そのときに感じるポイントに共感した。
永野さんは逃げるようにして相思社に来た。2008-12年に6,300人もの水俣病の申請を受け付けた。朝から夕方まで、お昼も食べずに話を聞いていた。特措法に基づく申請受付が終わった2012年から、訪ねて来る人の話をきちんと記録できるようになった。
以前の相思社では、患者さんの対応に非常に慎重で自由度が低かったという。だから、永野さんの仕事は、要領が悪く、生産性の低いものとみなされていた。しかし、相談に来た人から水俣病のことを「初めて話せた」と言われた。その言葉を聞いた永野さん自身、「私が救われた」。子どもの頃、水俣のことで恥ずかしい、惨めな思いをした。水俣出身であることを隠していた。そこから解放された。いまは、水俣病とかかわることを仕事にできて良かったと思っている。
本を出版したこともあり、講演を依頼されることが増えた。講演の内容は、たいてい水俣病の歴史と患者さんの現状などが半々くらいだが、最後にどう話をまとめるか考えあぐねる。先日、永野さんは講演する機会があったのだが、最後の提言が弱いと言われたという。
依頼する側とすれば、相思社たるもの、最後にビシャッとした辛口の社会批評を期待していたのだろうか。私は、期待に十分に応えられなかったことを気にしつつも、「提言は今でも言えない」と正直に話す永野さんを信頼できると思った。著書のように、リアルな経験を飾らずごまかさずに伝えることに、十分な力が備わっているはずである。
提言に代わる永野さんの願いはシンプルだ。病気であっても、その人が人として生きていけること。安心して食べものを食べることができること。この2つは、水俣病の経験から、せめてこれだけは学び、活かすべきと思われることだ。そして、これは水俣に限らず、どこでも実現すべきことである。

考証館の展示案内は、葛西伸夫さんが担当してくださった。以前来たときは、スタッフの方にご案内いただく時間的な余裕もなかったが、今回は丁寧に贅沢にも1対1でご説明いただいた。
国立民族学博物館の平井京之介さんがどこかで書いていたが、水俣では水俣市立水俣病資料館と、この水俣病歴史考証館を見比べるとよい。それぞれどういうストーリーを下敷きにして展示されているのか、いろいろと気づくことがある。また、資料館でも販売物は置いてあるが、考証館の販売コーナーは非常に充実している。応援会員になっているので、入館料が無料になったので、その分も含めて、いくつか図書・資料を購入して、帰路に就いた。

(松村正治)

雨の日も里山三昧