寄り道39 水俣で見聞きしたこと、考えたこと(1)

2019.4.1
雨の日も里山三昧

3月24日(日)~27日(水)の日程で水俣を訪れたので、今回のコラムでは、おもに水俣で見たこと、聞いたこと、考えたことについて報告したい。

行くまで

この水俣行きのきっかけは、12月中旬、法政大学多摩キャンパスで開催された第6回公害資料館連携フォーラムに参加したことにある。最近、カネミ油症について調べに五島列島へ通ううちに、比較材料として公害一般について考える時間が増えていた。特に、戦後最大の食品公害と言われるカネミ油症について考えを深めるには、汚染された食べ物に原因がある点で共通している水俣病について、もっと学ぶ必要があると考えていた。そこで、今回このフォーラムが自宅近くで開かれることを知り、6回目にして初めて参加したのである。そして、ここで吉永利夫さん(水俣病を語り継ぐ会/ミナコレ)と知り合うことができ、「ぜひ水俣に来てください」という言葉を正直に鵜呑みにして、その縁を頼って水俣を訪問したのである。

私が水俣を初めて訪ねたのは、15年ほど前のことになる。このときは、元水俣市職員の吉本哲郎さんが始められた地元学を学ぶことが目的だったので、愛林館に沢畑亨さんを訪ね、寒川集落で地元学を体験した。水俣病について学ぶ時間はほとんど取れず、水俣病歴史考証館をさっと短く見学しただけであった。だから、水俣病を考えるために訪れたのは、今回が初めてと言ってよい。

1月下旬、吉永さんと連絡を取り、誰に会いたいかを伝えると、その希望をすべて取り込んで、3泊4日の旅程を組んでくださった。今回のように限られた時間で回らざるをえない場合、現地に精通しているコーディネーターの存在はありがたい。

さて、水俣訪問を2週間後に控えた3月10日(日)、吉永さんが「水俣病経験の普及啓発セミナー」のために上京されるというので、事前の打ち合わせもしたかったので、会場のある東京青山へ行くことにした。
環境省主催のこのセミナーは、国立水俣病総合研究センターによる最新研究の講演、語り部講話、胎児性水俣病の患者さんの詩に曲を付けた音楽演奏、石牟礼作品の朗読、パネルディスカッション「水俣病の経験を伝えるために」と、多様な内容が3時間半に詰め込まれていた。このため、やや目的が散漫に感じられ、論点を深めるまでには至らなかったが、興味を惹かれる人や言葉に出会うことはできた。たとえば、写真家の芥川仁さん、語り部の杉本肇さん、吉永理巳子さん、水俣病被害者の半永一光さん、新潟水俣病の被害地で地域づくりをされている山崎陽さんなど。
杉本肇さんの語りは、深く心に響く。2016年5月の水俣病公式確認60周年記念特別講演会で、満員の安田講堂で初めて肇さんの語りを聞いたとき、大きく心が揺さぶられたことを思い出した(『水俣フォーラムNEWS』第39号に掲載)。お母様の杉本栄子さんを中心とした杉本家の暮らしは、NHKのドキュメンタリー番組や、水俣病資料館から取り寄せたDVDなどを通じて見る機会があった。それらは栄子さんを中心とした作品であるため、5人兄弟の長男である肇さんの視点から、栄子さんやお父様の雄さんなどのことが語られると、水俣病患者としてではなく、一人ひとりの個性や魅力が一層浮かび上がってくる。おそらく、肇さんは私たちが知っている杉本家のイメージを理解しながら、知られざる一面も含めて、ご両親の生き方を丸ごと大事にお話しされるので、自然と愛情が伝わり、温かい気持ちになるのだろう。
最後のディスカッションでは、芥川さんが水俣に入った写真家を代表して、撮影した写真やネガなどの資料保存については国が責任を持って取り組んで欲しいと述べ、登壇者からは一定の賛同を得られた。この提案については、もっともであると思う反面、公文書をはじめ記録を大事にしない国には期待できないので、市民社会がアーカイブズを運営する仕組みを考えたいと思った。
この日、セミナー終了後に関係者による懇親会が開かれたので、私も参加させてもらった。このとき、杉本肇さん、吉永理巳子さんとご挨拶することができ、水俣での再会を約束した。

現地へ行く前は、事前によく下調べをしておこうと考えていたが、地元町会の会長として4月上旬に開く定期総会のための資料づくりに追われ、ほとんど進めることができなかった。今回の訪問のために目を通したのは、セミナーのときに吉永さんからいただいた
「私にとっての水俣病」編集委員会編(2000)『水俣市民は水俣病にどう向き合ったか』葦書房.
のほか、今回アポを取っていた方々のことが書かれている次の3冊だった。
塩田武史(2013)『水俣な人―水俣病を支援した人びとの軌跡』未来社.
水俣フォーラム(2018)『水俣から―寄り添って語る』岩波書店.
『地域人(特集:新しい水俣をつくる)』第35号(2018)大正大学出版会
水俣フォーラムが2017年にまとめた『水俣病図書目録』によると、水俣病関連の本は500点に迫るほどであり、到底すべてをカバーすることはできない。しかし、これだけの資料があるので、現地に行かずにわかることも少なくない。逆に言えば、現地で何を学ぶのかを考えておかないと、東京でも調べればわかる情報を入手するだけに終わることもあるだろう。

会いたい人と会うアポ取りについては、ほとんど吉永さんに任せてしまった。先方からすると、どんな人が訪ねて来るのかわからないので、私のプロフィールと今回の訪問の目的を事前に文章で知らせて欲しいとリクエストがあった。以下は、そのために書いたものである。

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水俣訪問にあたって

大学で環境社会学という授業を担当しており、15回の授業のうちの3回は水俣病について学ぶ機会としています。学生は、四大公害病の1つとして水俣病を知っていますが、水俣という地域社会について、未認定患者、二世・三世の問題などについては、ほとんど知る由もありません。ですから、私が話をして、資料を見せたりすれば(毎年、水俣病資料館からDVDを借りて、杉本栄子さんの語りは観るようにしています)、あらためて学生も深く考えます。しかし、日々の自分の生活との接点をうまく見いだせず、社会の問題とどう向き合えばいいのか、戸惑っているように見えます。

現在、私は五島列島のカネミ油症被害と、その支援について調べています。
カネミ油症の場合、特措法ができて被害者補償という点で改善した部分がありましたが、その一方で、支援者にとっては次に打つ手が見出しにくくなっているように感じます。
もし、「支援」というものが、被害者が裁判で勝てるように協力することや、良い政策・制度をつくることとイコールであるならば、私にできることはほとんどありません。そのための専門的な知識や経験を持っていませんし、かりに持っていたとしても、問題が発生して半世紀にも及ぶ時間が経過したために、できることは限られると思います。
それでも、私はカネミ油症の被害者と出会ってから、一人ひとりが感じている辛さや悲しみを一部でも分かち合えればと思っています。医者でも法学者でもない、一人の人間として、人が人に対して人として出会い、互いのことを気にする関係になりたいのです。このような思いは特別なことではなく、被害者と出会う機会があれば、同じように感じる人も少なくないでしょう。
このような思いの寄せ方は、いわゆる「支援」とは違いますが、最近のはやり言葉でもある「寄りそい」とも違うと感じています。では、なんと呼ぶべきなのか、よくわかりません。
こうしたことを考えていた中で、永野三智さんの『みな、やっとの思いで坂をのぼる』を拝読したところ、深く共感しました。患者さんの話を聞く、そして言葉にする。このプロセスに込められている心遣いが、伝わってきました。
また、たまたま観た『しえんしゃたちのみなまた』(映画としては失敗作でしょうが)に登場していた中村雄幸さんのアプローチは刺激的でした。患者さんたちの世界に入り、共に生きたいという正直な気持ちは、とてもよくわかるように思いました。
谷由布さんという恵泉の卒業生が水俣にいるということは知っていました。しかし、坂本しのぶさんとの関係については最近まで知らなかったのです。水俣で恵泉OGがどんなことを考えて働いているのか、うかがいたいと思いました。それは、大学の意義を考える上でも、この機会にぜひお目にかかりたいと思いました。

今回の訪問では、質問紙を用意してインタビューにお答えいただくことは想定していません。自分が考えたいことに言葉を与えていくために、これまで水俣病の患者さんと深く関わり、「支援」についても根底から考えてきたに違いない方々とお目にかかり、それぞれが取り組まれてきたことと、お考えになってきたことをお聞かせいただきながら、そこに私の感想やコメントも挟んで、話し合う時間を持てればと思っています。

貴重なお時間を割いていただき、まことに恐縮ですが、どうぞよろしくお願いいたします。
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3月24日(日)

昼前、ほぼ定刻通り、鹿児島空港に到着。レンタカーで曽木発電所遺構を訪ねた。
ここは、チッソや旭化成の設立者である野口遵(1873-1944)によって、金山開発の電源供給のために1906年に建造された水力発電所跡である。ここでは、日本における電気化学工業の近代産業遺産としての説明はあるけれども、水俣病については特に言及されていなかった。鹿児島県にとって水俣病は「もらい公害」であるので、この経験から学ぶという取り組みは弱いのだろうと感じた。
15時、水俣市立水俣病資料館の前で杉本肇さんと落ち合い、杉本さんの車に同乗して、おもに水俣病の患者さんが多発した集落をご案内いただいた。まずは、国道3号線を南下してから西に折れ、今が収穫最盛期のサラダたまねぎの畑と大きな合板工場間を抜け、袋小路状の袋湾を左に見て、丘を越えると肇さんがお住まいの茂道集落である。茂道漁港は、入江の地形を生かした小さい港で、シラス漁用の2艘の船が停泊していた。周囲はミカン山に囲まれている。かつて、この山には松が生えていたそうだが、海が汚されて漁業だけでは食べていけなくなったので、農業構造改善事業でミカンを植えたという。つまり、人びとの生活のために変えざるをえなかった環境であるが、こじんまりとまとまった風景を私は美しいと感じた。
肇さんの仕事はシラス漁を中心とした漁業であるが、この時期は獲れないので柑橘類を育てている。水俣では甘夏がロングセラーであるが、最近はデコポンの生産農家も多い。しかし、デコポン栽培には加温が必要であるため、無農薬で栽培している肇さんのような農家は導入しにくいとのこと。また、デコポンにはイノシシの被害もあるのに対して、甘夏には鳥獣被害がほとんど見られない。もっとも、急傾斜のミカン山でヘクタール規模の草刈りは体力的に相当厳しく、放棄されて果実がなったまま収穫されないままの木々も散見された。
茂道のミカン山を縫うように上がり、坂を下ると神川(かみのかわ)集落であった。集落は境川という鹿児島県との県境を流れる川沿いに形成されている。私の家も、東京都と神奈川県の境を流れる境川の近くにあり、親しみを覚えた。境川を越えるとすぐに鹿児島県側の集落があるが、肇さんが子どもの頃は、川向こうの言葉が全然わからなかったという。
神川と言えば、「サラたま事件」(1999年6月)で知られる。これは、『どっちの料理ショー』というテレビ番組で、水俣のブランド野菜であるサラダたまねぎが取り上げられた際、ライバルは「東京都八王子市小比企町」の産と紹介されたのに、水俣のものは「熊本県袋神川」と「水俣市」が意図的に省かれたのである。この時間から20年の年月が流れたが、今のテレビ局は水俣の産品をどのように紹介するだろうか。
国道3号線に出て北上し、左に折れて向かったのが湯堂集落であった。この集落には、胎児性水俣病患者として知られる坂本しのぶさんがいらっしゃる。ちょうど資料館では、「ストックホルムからジュネーブへ―水銀汚染のない世界へ〜坂本しのぶのあしあと」という企画展が開催されていた(5/6まで)ので、2日後に見た。
湯堂漁港は袋湾に面した小さな港である。地形的な特徴から海底から水が湧き出している場所があり、堤防を歩いてその様子を見た。
その後、月浦で写真家のユージン・スミスが借りていた家や、自主交渉派のリーダー・川本輝夫さんがかつて住んでいた家などを案内していただき、南部もやい直しセンター「おれんじ館」へ向かった。この施設に隣接する月浦ふれあい公園から眺めると、不知火海がよく見えるからである。正面には恋路島が、右手に資料館のある明神崎と埋立地(エコパーク)、左手には茂道の先の岬が見え、水俣湾を一望できる。かつて、この湾で汚染された魚が不知火海全域に拡大するのを防ぐため、1974年~97年まで仕切り網が設置されていた。その範囲が手に取るようにわかるビューポイントであった。恋路島の奥には、左手に獅子島と右手に御所浦島もよく見え、その先には天草の島々も目に入る。まるで湖のようだと形容される不知火海(八代海)の穏やかさに気持ちも和んだ。
杉本さんに最後にご案内いただいたのは、エコパーク水俣であった。ここは、水銀を含むヘドロがたまっていた水俣湾を埋め立て、1990年にできた。1995年から市民の手によって種子から育てた「実生の森」は、木々が生長して立派な森となっていた。2006年、この地に水俣病公式確認から50年を記念して、水俣病慰霊の碑が建立られた。毎年、この慰霊碑の前で公式確認日の5月1日に水俣病慰霊式が営まれる。慰霊の碑の周りには、子どもたちが作った魚介類の焼き物が置かれている。チッソによる海洋汚染による被害は、人間だけではなく魚介類も受けた。亡くなった生きものすべての霊を慰めようとしている。
慰霊の碑がある親水緑地には、不知火海に向けて石像50体ほどが置かれている。これは、水俣病の被害者有志が中心となって発足した「本願の会」のメンバーが自ら彫ったものである。肇さんが1つひとつを見て、これは緒方正人さんによるもの、石牟礼道子さんのご主人によるものなどと、解説してくださった。お父様の雄さんが、手の悪いお母様の栄子さんの分を彫ったものもあった。肇さんを産む前に、栄子さんは2回流産を経験されたので、その石像は赤ちゃんの表情が彫られている。
これらの石像は海に向かい、不知火海をじっと見つめている。チッソ水俣工場の廃液が流れていた百間排水口の前には、川本輝夫さんの願いを受けて建てられたお地蔵様がいらっしゃる。こちらは、つねに排水口を見つめ、その先にはこの石が採られた新潟水俣病の被害地である阿賀野川があるという。
肇さんと別れる前に、語り部として手応えを感じるときについてうかがった。そこで教えてくださったエピソードが印象的であった。水俣の高校生が四国に対外試合に遠征したとき、相手チームの生徒から「水俣病!」などと露骨に差別的な言葉を言われたことがあった。そのとき、「そういう言い方を差別というんだ」「水俣病のことを教えよう」と、水俣で育った生徒が毅然と言い返したという。その言葉を聞いて、引率の先生達は感動して泣いたという。そういう話を聞いて教育の力は凄いと、あらためて感じたそうだ。私も教育に携わっているが、このように人が自分らしく生きるための力に役立っているのか、自分の手を胸に当ててみた。
肇さんと別れてから、今度は自分で車を運転して、同じ道をもう一回ゆっくりとまわって反芻してから宿へと向かった。この日は、湯の児温泉に朝食付きで4,400円という安宿に泊まったところ、風呂だけは良かった。

3月25日(月)朝から夕方

朝9時、吉永利夫さんと資料館で待ち合わせ、すぐに車に同乗して、夕方まで水俣病の被害地をご案内いただいた。
まずは、国道を南下して、出水平野に入り、米ノ津川河口にある名護港に行った。吉永さんは、水俣病センター相思社の職員時代、このあたりに住む患者さんと関わっていたという。港近くの住吉町には、NPOみなまたが運営するグループホーム「三郎の家」もあった。後で知ったことだが、水俣病第3時訴訟原告団長を務めた橋口三郎さんは、この町にお住まいだった。
その後北上して、昨日も訪れた茂道と湯堂を、あらためてご案内いただいた。前日は、おもに道幅の広い道を通ったが、この日は旧道を走ったので、茂道の杉本栄子さんが食堂をやっていた場所、湯堂の若衆宿があった場所なども巡り、集落の雰囲気がよく伝わってきた。
冷水(ひやすじ)の旧道は、車の交通が少なく、ヒューマンスケールで雰囲気が良かった。坪谷(つぼだん)は、初めて水俣病に公式確認された患者さんが発生した集落である。この集落の月浦新港でも、恵比寿さんが穏やかな海を眺めており、その佇まいに安らぎを感じた。
水俣駅前のチッソ水俣工場は、グループで事前に予約しておけば見学できるらしいが、今回は正門に近づき、かつて座り込みのためにテントが張られていた場所を案内していただき、敷地の外側をぐるりと半周して悪名高きサイクレーターを外から見てから、丸島漁港へ向かった。ここは水俣漁協があるように、水俣の漁業の中心地であるのだが、最近はあまり魚が獲れなくなっているという。かつて、ヘドロ浚渫のため新港を造ったが、現在はほとんど利用されていない。
まるしま食堂で、早めの昼食として水俣名物のチャンポンをいただいた後は、八幡残渣プール跡(現在は太陽光パネルが敷き詰められている)、石牟礼作品に登場する大廻りの塘、みなまたエコタウンの工場の数々などをご紹介いただき、古賀町2丁目に残る旧日本窒素肥料水俣工場跡や、旧水俣城のある陣内地区のチッソ社員寮などを見てから、さらに北上して津奈木町、芦北町へと向かった。
津奈木湾沿いの大泊と仮泊。その北の福浜からは、廃港になった旧赤崎小学校が見えた。この学校は、校舎が海に突き出しているのが特徴で、翌日に会った谷由布さんの母校でもある。
平国には、このあたりでもっとも大きな漁港があり、津奈木漁協がある。それから、合串(えぐし)。さらに、芦北町に入り、大矢、大星、京泊と津々浦々の漁村を訪ねた。京泊には、吉永さんが懇意にしている方がいらっしゃるというので、その方のご自宅を訪ねたが不在であった。そして、最北は打瀬船で知られる佐敷港まで行き、資料館に近い吉永さんの自宅に戻った。
今回、なぜ吉永さんは水俣を中心とした南北に長い漁村を1つひとつ案内してくださったのか。その本意は尋ねていないが、私はご案内いただいて、水俣病の患者さんがこうした漁村にくまなくいらっしゃること、そこに一人ひとりの命があること、そして、水俣病の被害が不知火海に広く及んでいることを実感することができた。。
チッソのテント前で患者さんたちが座り込みをしていたとき、水俣の市民の間ではなかなか支援の輪が広がらなかったという。水俣市内では、チッソと関係がある人ばかりなので、かりに支援しようという気持ちがあったとしても、そうした目立つ行動を取りにくかったのであろう。しかし、芦北の漁師たちはチッソと関係がないので、川本さんたちの運動を支えてくださったのだという。こうしたところにも、水俣という企業城下町特有の力学が見て取れるのだが、水俣以外の地域と比較することによって、より理解を深めることができた。

<続く>
寄り道40 水俣で見聞きしたこと、考えたこと(2)

(松村正治)

雨の日も里山三昧