寄り道41 「まちの近くで里山コネクト」里山型公園から書き始め

2019.7.1
雨の日も里山三昧

昨年、NPO法人a-con関係のプロボノ・グループの協力を得て、「里山コネクト」というウェブサイトをつくった。これは、私の地理感覚が比較的よく届く東京近郊の南西部を中心に、里山をいかす活動をおこなっている団体を独自に集めたキュレーションサイトである。
現在、このサイトには44の団体が掲載されているが、4ヶ月程度の短期プロジェクトで制作して終了することが決まっていたので、立ち上げてから頻繁に情報が更新されるような動きのあるものではない。サイトにアクセスした人に対して、各団体のfacebookページに「いいね」を押してもらうことに特化したリンク集と言ってよい。この弱点をカバーするには、「里山コネクト」への動線を作ることが必要となるが、ほとんどできていない。課題に気づいてはいても、優先順位を上げて取り組めないのが実状であった。

ところが、今年のはじめ、環境系の情報を発信している知り合いの方に、「まちの近くで里山をいかすシゴトづくり」プロジェクトに興味を持っていただき、環境情報サイトにコラムを連載してみませんかとお誘いがあったので、これを好機ととらえて、ぜひ書かせてくださいとお願いした。そこで、連載を始めるにあたり、タイトル、概要、メッセージなどを求められたので、次のとおり提出した。


タイトル:
まちの近くで里山コネクト

概要:
東京近郊で自然体験できる里山と、そこで活躍する人を紹介します。

メッセージ:
2011年の東日本大震災と福島第一原発事故によって、世の中は変わったと思いますか?
政治や経済の世界は、それ以前の延長線上を目標に「復興」へと向かったように見えます。しかし、きちんと目を開けば、これまでの社会のあり方を問い直し、自分たちの暮らしを自前で作り、自分たちの住む地域を良くしようとする人びとの存在に気づくでしょう。それは、地方だけではありません。東京近郊でも、里山をいかして仕事にする人たちが増えています。一つひとつの動きは小さくて個別的ですが、その原動力となっている時代感覚と価値観は共通しているものが感じられ、ムーブメントとも呼べると思います。
このコラムでは、環境NPO歴20年の著者が、東京近郊で自然体験できる里山(田んぼや畑、雑木林など)を紹介しながら、そこを活動拠点とする静かな変革の担い手たち(チェンジメーカー)に迫っていきます。

構成案:
01 里山が残る都市公園へ行く
02 自然の中で子どもが育つ
03 地元の野菜を食べて支える
04 里山カフェでくつろぐ
05 伝統ある農家と知り合う
06 山仕事のある森を楽しむ
07 里山で人が生き生きする
08 暮らしの道具を木でつくる
09 里山でアートにふれる
10 ローカルマーケットで買う
11 炭焼きで夜を明かす
12 消えた里山をしのぶ


実は、5月からコラムを書き始める計画だったのだが、担当の方と開始時期についての最終的な確認を怠ったまま時間が過ぎてしまった。このままずるずると立ち消えになるといけないと思い、今月のこのコラム「雨の日も里山三昧」で連載開始を宣言して、いよいよ取りかかろうと思う。
ただ、このコラムも含めて毎月2本を別々に書くことは、自分の作業能力を超えて辛くなりそうである。しばらくは、連載コラム「まちの近くで里山コネクト」を書くことをイメージして、走り書きする草稿や頭を整理するためのメモのようなものを、このコラムの原稿とすることがあるだろう。

さて、まずは初回分と絡めて、里山型公園について言及しよう。最初に公園を持ってくることにしたのは、里山とかかわるという点で、もっとも敷居が低いと思われるからである。
里山をどう定義するかは人によって見解が分かれるが、人と自然のかかわりが重要であるという点では一致するだろう。最新の『広辞苑(第7版)』によれば、「里山」は「人里近くにあって、その土地に住んでいる人のくらしと密接に結びついている山・森林」と定義されている。しかし、今日の一般的な語用では、森林に限らず、田畑、草地、湿地、水路なども含めることが多いので、この定義では狭い。また、現在の日本では、暮らしと密接に結びついている自然は限られているので、この定義に合った里山はほとんどないと言ってよい。そこで、ここでは、かつて人の暮らしと結びついていた農地や樹林地などの自然を里山と呼ぶことにしよう。識者によっては、かつては人びとの生活と結びついていたものの現在はその関係が切れている自然を「元里山」と呼ぶ人もいるが、普及している用法ではない。
里山について考える上で、もう1つ重要なことは、もともと人びとの暮らしと結びついていたことからわかるように、多くは民有地や集落の共有地であったということである。したがって、公有地と比べると相対的に政策的な手法が通じにくい領域なのである。このことは、里山が人びとにとって自由空間となる可能性をはらんでことにつながる。また同時に、その土地と関係のない一般の人びとにとっては、足を踏み入れられない領域であることも意味する。
すると、逆に一般の人びとにとって入りやすい里山は、どこにあるのだろうか。その場所として、かつては人びとの暮らしと結びついていたものの、現在は公有化されて一般に開放されている都市公園を挙げることができる。
ところが、都市公園という制度は、人と自然のかかわりを中心とした里山の考え方と相性が悪い。なぜなら、都市公園は造園物公園であり、基本的に公共財産である。一方、人が自然とかかわるときには、経済性の多寡にかかわらず、生産物、副産物、廃棄物が発生する。これをどう利用・処分するのかが、公共的な問題となってしまうからである。たとえば、タケノコを採ってよいのか、お米は売ってよいのかなど、それぞれの扱いについて議論になる。都市公園の中では、人びとが田畑を耕し、雑木林を循環的に利用するという里山の姿が論争を招くのである。
およそ1970年代までの都市公園は、都市内にオープンスペース・緑地を量的に確保することが優先された。このため、土地を買収して都市公園の体系に位置づけ、全国各地に標準化された公園を設置し、市民に開放すればよかった。しかし、次第に市民意識・環境意識の高まりにより、地域の自然や文化を大切にして、地域固有の時空間の文脈を公園のあり方に生かそうという考えが広まっていった。
身近な自然であっても、地域にとってはかけがえのない自然・文化を含んだ場所である。都市公園の制度によって里山環境をまもるには、人びとが自然資源を循環的にいかす当たり前の姿がまもられる必要がある。1980年代、このように考えた人たちが、トップダウンの標準化された都市公園の計画に異議を申し立てる市民運動を始めた。
この運動の象徴として、しばしば「まいおか水と緑の会」の事例が参照される。この団体は、のちに舞岡公園(横浜市戸塚区)として整備された里山を守るために1983年に結成された。当初の計画では、谷戸を埋め立てて芝生広場にするなど、標準的な都市公園がつくられるはずであったが、この団体は横浜市から公園予定地の使用許可を得て、自分たちの手で休耕田を復元させ、雑木林を管理し、農芸活動や環境学習などを実施した。こうして体験型プログラムを開発し、管理運営のノウハウを蓄積して、その経験をもとに公園計画に代替案を示していった結果、多くの提案が反映されることになった。さらに、1993年の開園後から現在に至るまで、この運動を母体とした市民団体が舞岡公園の管理運営を継続的に担っている。

「里山コネクト」には、舞岡公園、都筑中央公園、新治里山公園、長池公園などの里山型公園が掲載されている。どの公園でも、人びとが公園内の自然を管理して、発生した資源を活用している。こうした里山型公園を通して、人のくらしと密接に結びついていた里山の姿を想起できるし、その現代的な活用方法についても考えをめぐらすことができる。
しかし、こうした里山景観が残されているのは、当たり前なこと、自然な成り行きではなかった。かつてトップダウンで決められた公園計画に地域の人びとが異議を申し立て、オルタナティブをつくる提案力があったからである。里山型公園を訪ねるときに、こうした人びとが示した力を想起したい。失われていく景観を想像し、危機感を抱く人たちがいなかったならば、目の前の田畑は埋められ芝生公園になっていたかもしれないのだから。

(松村正治)

雨の日も里山三昧