寄り道30 「私にとって大事な環境を私たちの手に取り戻す運動」に参加するまで
2017.12.1雨の日も里山三昧
12/3(日)環境社会学会大会シンポジウム「環境社会学と「社会運動」研究の接点
―いま環境運動研究が問うべきこと」に登壇する。
私は「私にとって大事な環境を私たちの手に取り戻す運動論」と題し、
自分の里山研究および里山保全運動をふりかえって話題提供する。
今回のコラムでは、このときに喋ろうと思っている話のうち、
ライフヒストリーの一部を記したい。
ところで、環境社会学会の特徴として、環境問題の解決に資することを
公的に表明していることが挙げられる。
もともと、この学会は、学問の骨格も定まっていなかった頃に、
環境問題にアプローチしていた社会学、人類学、民俗学など社会科学系の
研究者たちが集い、立ち上げたものだ。
こうした伝統を受け継ぐように、
学会員の中には、研究者がおこなう社会的な実践活動について関心を持ち、
みずから実践している方々は珍しくない。
そして、環境社会学的な知見を、いかに現場でいかすのかについて、
自省的に考察している研究者も少なくない。
しかし、私の場合、みずからの実践について、
すなわち、都市近郊の里山保全活動については、
研究者が実践もしているとは捉えていない。
自分の生き方として、里山とかかわる暮らしを志向しており、
その価値観、考え方のもとで、日常生活を営みながら、
学術的な研究をおこなったり、NPO活動を展開したりしている。
そして、今年度からは、前者よりも後者に比重を移すために、
大学での働き方を見直し、里山をいかすシゴトづくりを進めようとしている。
今回のシンポジウム報告では、
なぜ私が環境社会学と環境運動の接点にいるのかを説明するとともに、
その領域にひそむ環境社会学的な論点を整理して提示したい。
このために、まずは私の個人史をたどることから始めたい。
すでに、このコラムには散発的に個人史を書いてきた。
環境運動に参加するようになった経緯について、
もっとも直接的に記したものとして、次のコラムがある。
→寄り道1 子どもながらに見ていた小さな世界
→寄り道2 私と里山はドーナツの中と外
さらに、関連するものとして、家族史にふれながら、
最近の私の政治的なスタンスについて書いたものもある。
→寄り道23 政治と正治
これらと重複することも多いので、ここでは短くまとめよう。
私は1969年(昭和44年)生まれ。
幼少の頃は、少し足を伸ばせば雑木林や谷戸が点在する郊外の住宅地で育った。
子どもが歩ける範囲に、生活水準の格差があった。
大きなお屋敷に住む人、家電のあふれる団地に住む人、茅葺きの農家に住む人。
私も含めて当時の人びとは、時代遅れの古さとともにある里山と、
そこに暮らす人びとに対して、いずれ消えていくものと感じていた。
そして、成人になり、気がつくと、そうした環境はなくなり、
何ごともなかったかのように、新しいまちができていた。
中高生の頃のことは、あまり覚えていない。
家庭に問題を抱えていたので、目の前にある問題をどうにかしたいと考え、
将来のことなど、ほとんど考えていなかった。
(→寄り道28 選ぶこと、受け入れること)
それでも、社会的な問題については、特に公正に関わることについては、
子どもの頃から問題意識があった。
それで、当時、社会的に大きな問題となりつつあった
環境問題への関心を深めていった。
高校生の頃、1986年にチェルノブイリ原発事故が発生して、
原子力の問題に興味を持ったことは覚えている。
実際、高木仁三郎の著作をいくつか読んで、
原子力資料情報室の会員になったりもした。
勉強はコツコツやるタイプではなかった。
中学3年の頃、まったく勉強する気持ちが起こらないときがあって、
学年250人中下から4番という成績を取った。
このとき、勉強ができるとかできないとかは、ディテールの問題だと感じた。
このままじゃいけないと思ったけれど、その後成績は上がらなかった。
一方で、この世界を数学でシンプルに記述することには、うっとりした。
特に山本義隆の物理学講義と出会い、古典物理学の世界に惹かれた。
物理現象を解き明かす微積分は面白いと思った。
社会的な問題に関心はあっても、得意な教科は数学と物理という生徒だったので、
現代科学に批判的な本に親しんでいた。
たとえば、宇井純、中西準子、宇沢弘文、村上陽一郎、槌田敦、室田武など。
大学は理系というだけで、入学してから専攻を決めるかたちだったが、
入学当初から理学部で自然地理を学ぼうと考えていた。
理系で環境問題を学ぶならば、
人間と環境の関係を扱う総合科学の地理だろうと思っていた。
しかし、進級したところは、あまり応用科学を好まなかった。
環境経済学や応用人類学の授業の方が面白かった。
学生時代、環境問題への関心はあったし、
ちょうど地球サミット(1992年)が開催されたこともあり、
地球環境ブームに沸いていたが、勉強には気持ちが入らなかった。
当時、ハマったのは芝居だった。
仲間と稽古を繰り返し、小劇場で舞台に立った。
脚本は、社会問題を扱うようなシリアス系ではなく、肩の凝らないエンタメ系。
何か形が残るわけでもないもののために、
20代前半の5-6年間の多くの時間を費やした。
学生になるまで、芝居に興味があったわけでもなく、
いわば成り行きでハマったものだったけれど、
自分を見つめる良い機会になった。
一人の人間として生きていけばいいという自信が生まれてきた。
学部を卒業して、民間の環境コンサルに就職した。
クライアントの要求に応えさえすれば、わりと自由に仕事ができる環境だったので、
就職後、2年目までは芝居も並行して続けていた。
座長が行方知らずとなり劇団が解散して、芝居との縁が切れた。
(→寄り道14 次へと踏み込む)
この会社でそれからずっと働き続けることを想像したとき、
この仕事はライフワークではないなと思った。
仕事を通じてはっきりと分かったことは、
自分の興味関心は動物・植物・景観のような「環境」にあるのではなく、
道路やダムを造ったりする「社会」の側にあることだった。
しかし、環境コンサルでは、「環境」の調査・計画等が得意であって、
「社会」へのアプローチが弱かった。
このため、自分を表現できる感じがしなかった。
ただし、会社との相性が悪かったというよりもむしろ、
問題にアプローチするための力が不足していると自覚していた。
それで、退職して大学院へ行こうと考えた。
大学院を選ぶとき、環境経済学や環境社会学の動向が面白いと思っていたので、
理系から文系へと文転することを決めていた。
実は、会社を辞めたときは環境経済学を学ぼうと思っていた。
しかし、指導をお願いしようと考えていた先生に面談を申し込んだら、
来年は学部から上がってくる学生だけしか取らない予定だと断られた。
はたと困った。
すでに会社を辞めていたので、環境社会学を学ぼうと考えを改めた。
環境社会学を指導していただける先生はいなかったが、
とりあえず大学院に在籍することが大事で、あとは何となる。
あるいは、自分でやればいいと軽く考えて、大学院に進学した。
修士課程では、都市近郊の里山保全ボランティア活動をテーマにした。
会社員時代は、屋久島、阿蘇、秩父、八幡平など、
自然豊かな地域で調査して、報告書を書いていたが、
自分の住んでいる地域のこと、足もとのことには無関心だった。
その頃、阪神淡路大震災(1995年)が起こって、
ボランティア活動や市民参加の必要性が社会に認められるようになり、
報告書にもそのような活動を勧めることを書いていたが、
自ら実践する機会がなかった。
言行不一致の状態が気持ち良くなかったので、
自分の住む地域に目を向けてみるところから始めることにした。
その頃、日産がNPOラーニング奨学金制度を始めた。
これは、学生のNPOへの参加を促すもので、
学生をインターンとして受け入れるNPOに適当なお金が提供されるとともに、
学生にはアルバイト代相当が支払われた。
私はこの制度ができた第1期生に応募して、
アリスセンター(まちづくり情報センター・かながわ)で活動することになった。
アリスセンターを選んだ理由は2つあった。
1つは、インターン期間中に取り組むプロジェクトに関心を持ったからだ。
これは、神奈川県内でユニークな活動をされている団体・人・お店などを
紹介する本を制作しようというプロジェクトだった。
この制作プロセスにかかわり、素敵なアクティビストたちと出会えた。
もう1つは、よこはまの森フォーラムという横浜市内の森づくり活動団体による
ネットワークの事務局をアリスセンターが担っていたからだ。
身近な環境を守ろうとするボランタリーな活動に興味があったので、
その事務局のお手伝いをさせてもらうことになった。
(→第7回 『森をつくる人びと』(浜田久美子))
大学院1年目の1998年、横浜市内で第6回全国雑木林会議が開かれた。
これは、横浜の森フォーラムが中心となって運営していたので、
横浜市内の森づくり活動団体の概況を理解するのに都合が良かった。
会場で、活動団体の人びとや横浜市の職員らとあいさつして感じが良かったので、
この中に入っていきたいと思った。
それで、この年の晩秋、はじめて現場に足を踏み入れた。
それが、恩田の谷戸ファンクラブとの出会いだった。
(→寄り道5 ホタルの光をいつまでも)
修士論文の題材にすることは念頭に置いていたが、
まずは、この谷戸をまもろうと活動してきた人たちの中に、
飛び込んでみたいと思ったのだ。
さて、かなり端折って書いてきたつもりだが、長くなってきた。
私はまだこの段階では、沖縄に行ったことが一度もなかった。
大会シンポジウムのテーマである、
こうした個人史を簡単に紹介してから、シンポジウムでは
環境社会学と環境運動の接点の話へともっていくつもりだ。
続きはこのコラムに書くか、別のところで書きたいと思う。
(松村正治)