寄り道29 まちの近くの里山の環境倫理ゼミナールを始める理由

2017.11.1
雨の日も里山三昧

今年5月に「まちの近くで里山をいかすシゴトづくり」の理念(ver.1)を書いた。
これを「理念1」とすると、今回のコラムはこの続きで「理念2」に当たる。

まずは、11月9日から始める「まちの近くの里山の環境倫理ゼミナール」について、イベントページに記した趣旨説明を引用しよう。

近年(特に3.11以降)、首都圏近郊では、地域の自然に目を向け、それを活かして暮らしに取り入れたり、起業したりする人たちが目立つようになりました。NPO法人よこはま里山研究所(NORA)+たま里山研究室(TAMA)は、そうした動きを後押しするために、昨年、「まちの近くで里山をいかすシゴトづくり」というプロジェクトを開始しました。横浜・川崎、多摩地域で実践されている人や関心のある人たちに呼びかけてネットワークをつくり、これまで、里山の恵みをお金にすることを一緒に考えたり、それぞれの実践を報告して交流したりする機会を設けてきました。
しかし、「シゴトづくり」だけにフォーカスを当てると、シゴトがカセギへと変質してしまいます。私たちは、グローバル資本主義の功罪をかみしめつつ、経済活動のあり方についても、きちんと考えておく必要があるでしょう。
そこで、本ゼミナールでは、地域の自然をお金に変えるだけではなく、そこから確かな仕事と暮らしをつくろうとする現代的な意味について掘り下げます。しかもそれを、地方ではなく都市近郊(=まちの近く)を舞台に考えることで、もっぱら消費するばかりの都市生活のあり方を問いなおそうと思います。
初回のゼミにお招きするゲストは、都市農業の可能性を追求し、農地での新しい楽しみ方を提案しながら、国立でコミュニティづくりを実践している小野淳さんと、知的障害者とともに都市農業を営みつつ、都市住民へ食の自給を呼びかけてきた石田周一さんです。コメンテーターには、環境倫理を専門とする哲学者で、名著『自然保護を問いなおす』の著者である鬼頭秀一さんをお招きします。
実践者と哲学者の対話を通して、たとえば、自律、自給、参加、共生、ケアといった言葉を手がかりに、都市住民が人と自然の関係をつなぎ直す意味を探り、生み出される価値を紡ぎ出し、欲しい未来に向かうための理念・哲学を鍛えます。

「理念1」でも言及したが、このプロジェクトは「シゴトづくり」とは言っても、経済活動だけに焦点を当てたいわけではない。
バランスの取れた仕事と暮らしの充実、生きる甲斐のあるライフスタイルの実現が目標である。
私が目ざしたいことはシンプルだ。
輝かしい高度成長(シンボルとしての「昭和」)後の、フツーに幸せを感じる社会のあり方を考える。
反近代ではなく、近代の功罪を抱きしめつつ、少しでもマシな社会を構想する、というもの。

だから、都市的なライフスタイルがダメだからといって、地方で自給自足の暮らしをするために移住するという方法は採らない。
自分が生まれ暮らしてきた都市的な環境に身を置きつつ、その土地に眠る価値を掘り起こし、そこから人と自然の関係性を再び「取り戻す」こと。
ここに、近代の限界を乗り越えていく回路があると信じ、(右でも左でもなく)前へと進みたいと思う。

今回のイベントでは、「ゼミナール」という言葉を用いた。
これは、大学で開かれる、いわゆる「ゼミ」を意識してのことである。
辞書で「ゼミナール」を引くと、「大学などで教師の指導のもとに少数の学生がみずからの発表や討論により主体的に学習を進める形の授業、またその教授方式。
大学における教育形態として重要な位置を占め、教師が一方的に研究成果を教授する講義形式と対照をなす」とある。
なお、ゼミナールを英語で言えばセミナーであるが、日本でセミナーというと、公募型で行われる講師対受講者形式の講座をイメージしやすいことから、ドイツ語のゼミナールを選んだ。

大学教員をしていて面白いと思うのは、やはりゼミである。
しかし、コミュニティとしてのゼミではない。
学生が主体的に調査してきたことを発表し、それを聞いて議論するゼミという授業の形式である。
学生たちが自分の足で現場を訪れ、見て聞いて調べてきたことは、どんなことだって興味深いし、議論が盛り上がる。

しかし、それだけ面白いのであれば、ゼミ形式で学ぶのを学生だけに限るのはもったいない。
テーマを決めて、担当者に話題提供してもらって、参加者とともに議論するのは、誰でも、どこででも可能だ。
良いテーマを探すことと、議論するのに適当な場を見つけるのは大変だが、大学の外でもゼミを開いてもいいはずだ。
そこで、最近は、ゼミナールという言葉を用いて、話題提供者も参加者も、そして企画する私も、共に学ぶ場をつくることにした。

10月9日(月祝)に開催したイベントは、「里山の恵み×ネット販売」をテーマに少人数で学ぶものだった。
この形式のイベントは、昨年までテーマ別ワークショップと呼んだものだったが、今回は実践ゼミナールとした。

ここで、ゼミナールの頭に「実践」を付けたのは、理論的なゼミナールをすでに計画していたからである。
それが、このたび開く環境倫理ゼミナールである。

ゼミナールの前に環境倫理を持ってくるのには悩んだのだが、その経緯は次のようなものだった。

昨年から「シゴトづくり」という名前でプロジェクトを始めたところ、ビジネスモデルを知りたいという人たちを招いてしまうことがわかった。
「シゴトづくり」の実践ゼミナールでは、人びとが知りたがる年収をおおっぴらにしてくれる話題提供者が多い。
たとえば、ある男性が「起業したばかりで、まだ妻の扶養に入っています。その分、家事は妻以上に担当しています」と言ったとき、フロアがどう反応するのか。
「全然稼げていないじゃないか」と感じるのか、「夫婦で仕事も家事も分担しながら、自分らしい生き方を模索しているのはいいなぁ」と感じるのか。
私は、前者のような考え方を否定しないが、後者のように考える参加者が多くいる場をつくりたいと思う。

そこで、内山節さんによる稼ぎ(お金のために労働すること)と仕事(人間的な営みで、多くは直接自然と関係している)の対比を踏まえて、「カセギに流されないシゴトづくり」をテーマに持ってきた。
このゼミナールは、これから連続して開く予定であるが、このテーマが全体を貫くものになるだろう。

シゴトやカセギという点に焦点を当てるならば、経済倫理という言葉が妥当だろうと考えた。
しかし、NORAのミッションは、シゴトづくりではなくて、その結果としての里山保全、そして都市住民の暮らしの充実にある。
やはり、里山とか環境とかを入れた方がいいと思い、里山哲学という言葉も思い浮かんだが、わかるようでわからない。

どうしようかと、迷った。
ゼミナールでは、進行役とコメンテーターの役割が重要だ。
進行は企画者である私が引き受けるとして、コメンテーターには、この企画を詰めていく際に相談に乗ってくださった鬼頭秀一さんにお願いすることにした。
鬼頭さんの専門が環境倫理であることから、ええぃ、鬼頭さんに半ば預けてしまおうと、環境倫理ゼミナールと名付けた。

もちろん、アカデミックに環境倫理学を掘り下げたいわけではない。
人と自然のあり方を「シゴトづくり」に絡めて考える。
それくらいのイメージである。

里山の経済倫理ゼミナールという名称で企画を考えていたときは、経済評論家の内橋克人氏が提唱している「FEC自給圏」を手がかりにして、食(Food)、エネルギー(Energy)、ケア(Care)を自らつくり出している現場の声に耳を傾けるところから始めようと考えていた。
この発想自体は、今でも生きているが、エネルギーと里山を関連づけながら、自らの実践を踏まえて話せる人があまり多くいないように思われたので、今の企画からは引っ込めている。

今回、話題提供をお願いしている小野淳さん、石田周一さんは、食についてもケアについても、ユニークは試みを実践されていて、経験と見識をお持ちの方々である。
そうした実践現場からの声と対話する中から、都市生活のあり方を考えたいと思っている。

さいわい、facebookを中心に広報したところ、多くの方に興味を持っていただき、13,700ほどのリーチ、340ほどのリアクションがあった(11/1現在)。
当初は、定員を25名として、一般参加者も交えて議論するつもりだった。
しかし、東京・神奈川・千葉・埼玉だけではなく、静岡・長野、遠くは三重からもお申込みをいただくなど、一定のニーズがあるようなので、定員を50名まで拡げることにした。
フロアから議論に加わっていただくことは難しくなったが、適当な方法で参加者の声を集めたり、終わってから懇親会を開いたりするなどして、参加して良かったと思っていただける場をつくりたい。

私自身が、とりあえずやってみたいと思って始める企画なので、どうなるのか予想がつかない。
まだ、何も始まっていないし、期待の高さに答えられる自信はない。
しかし、反響の大きさからして、進むべき方向は間違っていないと確信している。

(松村正治)

雨の日も里山三昧