寄り道64 8月13日
2023.9.1雨の日も里山三昧
2023年8月13日10時56分、母が亡くなった。81歳だった。
パートナーに先立たれて9年、認知症と診断されてから7年。
認知症は死に至る病だと受けとめていたので、
このときが来る覚悟はできていた。
早朝5時20分、電話が鳴った。
入院先の病院からだった。
この時間の電話だから、受話器を取る前から悪い知らせだとわかった。
ここ数年、予期しないタイミングで電話がかかってきたが、
それは決まって母の悪い知らせだった。
ここ数日、母の体温は高く、心肺機能が弱まっていたので、酸素を2ℓ/分投与していた。
今夜になって酸素飽和度SpO2が急激に下がって、酸素を10ℓ/分にしている。
病院に来られるならば、できるだけ早く来るように。そう看護士から促された。
受話器を置き、入院先の近くに住む伯母、京都に住む弟に母の状況を伝えると、
2人ともすぐに病院に駆け付けるという。
伯父は高齢のために外出が難しくなっているので、
その後の推移様子を見てから連絡することにした。
この日8月13日は、かつて一緒に芝居をやっていた後輩の命日である。
彼女は大学4年生のときに急逝した。
あれから25年、コロナ期間を除いてほぼ毎年、
私はこの日に彼女の実家がある猿橋を訪ね、
ご両親やご家族、当時の友だちと昔話をしたり、近況を交わし合ったりしてきた。
今年は4年ぶりに彼女の遺影に手を合わせるつもりでいたが、
病院からの連絡を受けて、ご実家に電話して伺えない旨を伝えた。
妻と私は、車で病院に向かった。
約40分後、伯母とほぼ同時に病院に到着した。
3人で病室に入ると、母はとても苦しそうに息をしていた。
私が最後に面会に来たのは、約2週間前だった。
そのとき、母はずっと目をつぶっていたが、
手を触ると、強く握りしめて離そうとせず、
まだ生きる力が残っていると感じられた。
その後、伯母が面会したときには、
声掛けに対し反応らしきものが見られたと報告を受けていたのだが、
明らかに苦しそうな状態だった。
酸素飽和度が80を切ると、ナースステーションでアラートが鳴る。
病室に到着直後は、ときどき鳴るという感じだったが、
次第にその回数が頻繁になり、その後ほぼ鳴りっぱなしとなった。
しかし、誰も母の病室に駆け付けることはない。
母がどういう状態であるかは病院スタッフに理解されており、
看護士が痰を吸引するくらいしかやることは残されていない。
次第に数値が悪くなっていくのを見ながら、
母に残された時間は僅かだと悟り、
京都から来る弟が息を引き取るまでに間に合うかどうかを心配するようになった。
9時50分、病院の最寄り駅に着いた弟から電話が入った。
タクシーで向かいたいが、待ち人が多くてすぐには乗れない。
10時過ぎ、母は息を吸うことができなくなり、
最後に数回、うめくような、いびきのような音を発して、呼吸が途絶えた。
計測している数値もすべて動かなくなったので、そのことを看護士に伝えると、
ナースステーション内では、別の数値も確認していたようで、
息は途絶えてもまだ心臓は動いていると説明された。
ほどなく、弟が病室に滑り込んだ。
弟は親の死に目に会えないだろうと私は諦めかかっていたが、
思いが母に通じたかのように間に合った。
10時25分、看護士が病室に来て、心臓が停止したことを告げられた。
通常はすぐに医師が来て死亡を確認するようだが、
この日は日曜日で病院内に医師が1人しかおらず、
しかも容態が急変した他の患者の対応に追われ30分待たされ、
10時56分に死亡と診断された。
直接的な死因は、慢性心不全による急性増悪だった。
実は、病院からすぐに駆け付けるように呼ばれたのは、この日が2回目だった。
1回目は7月26日で、排尿が見られず心拍数も遅くなっており、
容態が急変しかねない状態となっているから、
できるだけ早く病院に来るようにと言われた。
そのときも伯母と妻と私は病院に急行し、28日には弟家族も上京して面会した。
7月28日には内科の主治医から、母の容態について説明を受けた。
母は認知症のために精神科に入院していたのだが、
その頃から熱が出て、尿も出にくくなっていたので、前日27日に内科病棟に移っていた。
内科医からは、母の病状は慢性心不全であり、
急変して臓器がバタバタと悪くなって(急性増悪)死に至ることもあること、
また、説明の中で一般的な話として予後6か月という数字が示された。
それが、長いとも短いとも思わなかったが、
秋の終わりくらいまでは生きられるのではないかと想像した。
しかし、そのときは思いのほか早く訪れた。
それでも、いつ命が途絶えてもおかしくないと覚悟していたし、
次第にバイタルサインが小さくなっていく経過を見ていたので、
母の死が告げられても感情がこみ上げることもなく、
むしろ安堵感のようなものさえ覚えた。
それでも、伯母が母の遺体に泣きついたときは、
その深い姉妹愛に感情が揺さぶられて胸に迫るものがあった。
医師が母の死を確認するとすぐに、看護士から母を霊安室に移すと説明された。
また、どこに遺体を運ぶのかを把握したいので、
葬儀屋が決まったら速やかに知らせるようにと促された。
私たち家族に、1人の命がこの世界から消えた余韻を浸る時間は許されない。
病院からすると、医療の対象ではなくなった母を病室に留めるわけにいかず、
次の入院患者を受け容れるために、速やかにベッドを空ける必要がある。
霊安室で、母は顔に白い布を被せられ、
そばには即席の祭壇があり、造花が2鉢段取りよく置かれていた。
その手際の良さ、装置の手軽さは、死の重さに比べて、可笑しく思えるほどである。
母の死も効率的なルーティンに回収されていく。
この病院には、終末期の患者が多く入院しているので、
入院患者が亡くなることは日常茶飯事なのだろう。
実際、この日は母のほかに2人の患者が亡くなったようだ。
母はかつて互助会の営業をやっていたことがあり、
自分の葬儀についても、自分で毎月いくらか積み立てしていた。
このため、葬儀屋は予め決まっていたので迷うことがなかった。
しばらくすると、霊安室の扉が開き、
室外には遺体を運ぶ車が横付けされていた。
ストレッチャーで車に母を載せ、葬儀場に向けて走り出すとき、
病院スタッフが並んで、神妙な面持ちで深々とお辞儀する。
私たちも母の後を追って葬儀場へ向かった。
葬儀場で葬儀屋スタッフと打合せをして、
告別式は3日後の8月16日と決まった。
葬儀は、家族・親族のみで執り行うことにして、
10人が集まることになっていた。
8月16日、家族・親族が8人集まった。
約20年ぶりにいとことも会えた。
伯父は「松村家はわがまま」と評していたが、
母は松村家の典型のように自由に生きたように思うし、
いとこたちも自分に正直に生きているようだ。
それが、「わがまま」と映って周りとうまくいかないときもあるだろうが、
それでも自分の意思を大事に生きているいとこたちと久しぶりに話ができて、
私ももっと「わがまま」に生きようと思った。
弟と甥は、前日の大雨の影響で、
新幹線が止まってしまい、葬儀に間に合わなかった。
母の遺骨を私の家に持ち帰ったので、
彼らは夕方にやって来て遺骨と対面し、
今日中に帰る必要があるからと、30分ほど滞在して関西方面にとんぼ返りした。
母が亡くなったとき、私は自分のことよりも、伯母のことが気に掛かった。
愛していた長男を亡くして間もなかったからである。
7月下旬、石垣島の農家から取り寄せた完熟マンゴーが届いたので、
伯母が住むマンションまでお裾分けを持っていった。
マンゴーを2つ手渡すと「少し時間ある?」と尋ねられた。
母のことで何か話したいのだろうかと思いながら「ありますよ」と答えると、
落ち着いて話せるロビーに向かい始めるやいなや、
独り言のように「カズキ(伯母の長男、私のいとこ)が死んだの」と言った。
急なことで私は動転して、何かの聞き間違いではないかと思い、
何も言葉を発せないまま伯母に付いていった。
ロビーの椅子に腰掛けると、伯母はこう説明した。
カズキさんは最近よいパートナーと巡り会い、
関東北部で同棲を始め、そこで仕事をしていたが、
慣れない場所での生活や職場のストレスが高じたのか、昨年秋に急死した。
葬儀は家族葬で済ませ、納骨するために家の近くに樹木葬のお墓も購入し、
そこにカズキさんの遺骨を納めたという。
私は心底驚いた。
伯母と私は、母に関するあれこれを週に何回もメールでやり取りしてきたが、
その中に息子の死を感じさせることは一言も書かれていなかった。
たしかに振り返ってみると、メール返信が滞り気味なときはあった。
それでも、まさか息子の急死、葬儀、遺品の整理、納骨など、
普通ではいられない日々を過ごしていたはずなのに、
そのことをおくびにも出さなかった。
打ち明けられたときは、なんで言ってくれなかったの!と
問いただしたくなる気持ちが沸き起こらないことはなかったが、
立場を置き換えて考えてみると、伯母の心情は理解できる。
私が伯母や弟に送るメールは、まるで出張時の復命書のように事務的であった。
それは、事態の推移に私の感情が付いていくことができなかったためで、
ただ出来事を客観的に記録して、家族・親族と共有していた。
自分が母のことでストレスを感じないようにしながら、
同時に周りにも心配をかけないようにと、淡々と平静を保つように努めていた。
しかし、伯母は私の気持ちを心配したのだろう。
たしかに、母のことに関しては、ほとんど良い知らせはなかった。
私は家の中で「何もいいことがない」と、こぼしていた。
そんな状況で、さらに悪い知らせを伝えることはできなかったのだろう。
もちろん、伯母本人が、長男の急死というショッキングな出来事に触れ、
自分の気持ちを整理し、受けとめるのに時間がかかったこともあったに違いない。
伯母には、これまで私に黙っていたことに対して済まないという気持ちもあっただろう。
伯母は私と久しぶりに対面する機会をとらえて、
ようやくカミングアウトすることができた。
別れるとき、伯母は胸のつかえが取れたようにすっきりとした顔立ちを見せた。
葬儀の最中、伯母は母の死をどのように受けとめたのか伝えてくれた。
もちろん、たった1人の妹を失って悲しいに決まっている。
しかし、伯母は「ほっとした」と言った。
母は年老いたら、家族・親族の誰にも頼らずに済む介護施設に入所して、
あっさりと死を迎えることを望んでいた。
それなのに、認知症が進行して、家族・親族、地域の方々の手を煩わせ、
最後は点滴、栄養チューブ、酸素マスクを付けて、息苦しそうにして亡くなった。
そうした母の老い方(生き方)に対して、伯母は割り切れない感情を抱いていた。
このような介護・医療は「キッコ」(伯母が母を呼ぶ呼び方)にとって良いことなのか、
伯母はそのような問いを私に向けることがあった。
私は、この世界に母の命があることはありがたいことだからと、
介護や医療で家族の同意が必要なときに署名してきた。
それでも、伯母が母の死の迎え方について自ら問い、
真剣に母のことを思って考えていることに胸を打たれた。
そのような問いに悩んでいる姿を知っていたので、
「ほっとした」という感情には、
いろいろなものが含まれていることは明らかであった。
伯母は、息子の死、妹の死を受け入れ、
自らの感情の葛藤に終わりを迎えることができたのだろう。
それは、私にとって、どこか救いのようなものを感じた。
気がつけば、私も母のことを意識的に、無意識的に考え続け、
「何もいいことがない」と嘆いていた日々が終わった。
母とともにこの世界にいた50年余りをふりかえると、
いまは感謝しかない。
自分らしく生きること、自分の価値観を大事にすること、
人を愛することの素晴らしさを、私は母の生き方から学んだ。
自分を貫いて、よく生きたと思うよ。
どうもありがとう。
(松村正治)