第113回 セルジュ・ラトゥーシュ『脱成長』

2023.1.1
雨の日も里山三昧

セルジュ・ラトゥーシュ『脱成長』(2020年、白水社)

年末も押し迫った12月27日の夜、私が担当している市民向けオンライン講座に、十文字修さん(いか福@Sado、元まいおか水と緑の会)をゲストに迎え、「街のエコロジー青年と舞岡公園づくり~そして今、佐渡暮らしから思うこと」というタイトルで、ご自身の運動史についてお話いただいた。
前半は、横浜で都市と自然、市民と行政の関係づくりに奔走した20年間を、特にその後の公園づくりや里山保全のシンボルとなった舞岡公園づくりについて、個人史とともにふりかえり、わかりやすく説明された。
総括として語られた「バブルの時代に、バブルを生かして、バブル後の時代に善きものを残せた」という言葉が印象的だった。
しかし、私が今回の話に心が動かされたのは、前半の舞岡の公園づくりに成功した物語ではない。
2002年に一家5人で佐渡に移住してからの経緯について、想定通りにいかなかったことや離島社会の厳しい現実を含めて率直に語ってくださったことに対してであった。

十文字さんは、移住後10年間の状態を「パナマのレセップス」と表現した。
これは、スエズ運河の建設に成功したフランスの外交官レセップスが、晩年はパナマ運河の建設に着手して失敗したことに、ご自身の経験を重ねてのユニークなたとえである。
橫浜では、地域の環境を保全再生しようと思って旗を揚げたら、その理念に共感し、一緒になって知恵を絞り、汗を流す仲間が集まった。
また、応えてくれる行政職員もいたし、財政的に支援してくれる民間基金もあった。
しかし、佐渡ではうまくいかなかった。
もちろん、大都市橫浜と離島の佐渡という地域性の違いはあったが、それよりも実感としては時代の違いが大きかったという。

何かヴィジョンを掲げて島づくりに取り組むと、周囲の人は共感して手伝ってはくれるものの主体的に関わることはなく、「頑張ってください」と言われる。
魅力的に映る活動であっても、当人の自分事にはならない。
ただし、それは仕方がないことであった。
佐渡の人口は、1950年の12万人余りをピークにその後は減少する一方で、十文字さんが移住した頃には約7万人に、現在は5万人を割り込みつつある。
動ける「現役世代」は本業に忙しいばかりか、家族・親族、地域などのために、すでに目一杯働いている。
人手が毎年着実に減っていくなかで、有志が束になってもどうにもならない現実課題の圧倒的な重さが社会を支配していた。

そうした地域や時代の違いとは別に、対応策も見誤っていたとふりかえる。
十文字さんが佐渡を移住地に選んだ理由は一つではなかったが、島国日本のあり方を離島の佐渡でモデル的に実践し、広く発信していきたいという頭もあっただろう。
このため、トキ以外に佐渡と言えばコレという島の特長を打ち出そうと、中央省庁の政策動向も見ながら補助金の類いを引っ張ってきて、いくつかのモデル事業に取り組んだ。
しかし、少子高齢化が進み、人口減少の慣性が否応なく働く社会では、あれこれとアイデアを思いついて試行錯誤しても、ものにはならなかった。

取り組むべきことは、地方か都市かを問わず、共通する課題を抱えている地域同士でコミュニケーションを交わすことだった。
地域課題への向き合い方、課題解決に向けた仕組みづくり、制度の生かし方、言葉の用い方などについて、地域間でやりとりすることであった。
このように誤りがどこにあったのかとわかったのは、最近になってようやくのことだったという。

近頃は佐渡においても、おもに移住者が空き店舗を活用して、若者が集うおしゃれな居場所を開いたり、カフェやベーカリーのポップアップが出店したり、こだわりの選書で心が洗われる本屋ができたりしているそうだ。
こうした小さくても自分の欲しい未来をつくる取り組みは、近年全国で見られる地方創生や空き家・空き店舗活用の事例とも重なり、現実課題の重さをいっとき忘れさせてくれる。

十文字さんは、こうした新しい風に対して明るい兆しを感じながらも、1人ひとりの発意に基づく小さな取り組みだけでは足りないのではないかと考えている。
自分が手の届く範囲内で素敵な世界を創り出したとしても、社会的には大きなインパクトを与えることは難しい。
もっと、私たちの暮らしを枠づける制度や、それを決める政治への関心を高めるなどの方策も必要だと思っている。
ただし、そう思ってはいても、あまり口に出さないようにしている。
ふりかえれば、自分が若いときも、必要だと感じ、実現したいと思ったことをやってきた。
社会的な構造を見渡し、冷静に分析した末に取り組んできたわけではない。
むしろ、当時の自分には見えなかったからこそ、突っ走れたこともある。
表現の仕方は異なっていても、現状の社会に飽きたらないものを感じ、自らオルタナティブを創り出しているという点では共通している。
十文字さんはそこに希望があることを確認し、今はこれからの推移を見守ろうというスタンスのようだ。

ここに、これからの社会のつくり方について論点がある。
手の届く範囲でオルタナティブを現実の社会に創りだすことと、私たちの社会のあり方を決める政策や制度を変えていくこと。
地方からか中央からか、自己変革か社会変革か、予示的政治か戦略的政治か、さまざまな対立軸で整理することができるが、AかBかではなく、AもBもと両立させることが必要であろう。
この点は、十文字さんがいつも強調するところだが、私も同意見である。

一般には、2つから1つを選ぶことに比べると、2つを同時に求めるには多くの資源が必要となるので、より一層難しく感じられる。
特に人口が減少し、経済も低成長な時代には、選択と集中によって限られた資源を効率的に投入した方がよい。
AもBもと二兎を追うことは無理難題と考えがちである。
普通に考えれば、そのとおりだ。

けれども、この分岐点に立ったとき、どこか既視感を覚えないだろうか。
例の示し方が大きすぎるかもしれないが、たとえば、社会か経済か、環境か経済かという問いを立てたときには、いつも後者を選び、経済成長によってパイ(資源)を増やせば、社会問題も環境問題も解決できるという方便で、その理由を説明してきた。
あるいは、小さなコミュニティと国家の利益が衝突するときは、圧倒的な数の論理によって後者を優先させることを正当化してきた。
しかし、そうした理屈が通用したのは、日本ではせいぜいバブル期までではなかったか。
今日では、中央から地方への富の再分配によって均衡ある発展が望めるとか、経済成長が駆動力になって諸課題を解決できるという言説が神話として聞こえる。

ここでようやく、今回取りあげた本書のタイトル「脱成長」のポテンシャルに気づく。
本書の冒頭に書かれていることは、「脱成長」が経済成長を否定する反成長の思想ではない、ということだ。
私たちが社会のあり方を考えるときに、成長することに囚われていること、それ以外に豊かな社会を実現する術が見通せないこと。
そもそもオルタナティブを考えるための言葉が奪われていること。
その不自由さに気づき、そこから逃れようとする運きが「脱成長」という言葉には込められている。

私が本書から受け取ったメッセージは、成長主義に対するこうした批判的思考の重要性である。
私たちは社会課題を考えるときに、新たに何かを生産し、経済を成長させ、それを適当に分配すれば、解決に近づけるという発想をとりがちである。
ここに成長主義による思考の癖が染みついていると思われる。
この思考法は、工学的あるいは経営学的なアプローチと言えるかもしれない。
このとき、私たちは資源をどう増やすのかを考え、経済成長を求める。

解決すべき課題があり、それを特定して必要な資源を投入する。
このようなアプローチは、近代化以降ずっと継続してきたものだろう。
しかし、1つの課題を解決すると、別のところに新たな課題が生まれる。
それは、イタチごっこのようであるが、それだけであればまだよい。
グローバルな環境問題のことを考えると、むしろ問題は不可視化し、見えないところで深刻化してきた部分もあったように思われる。

それでは、成長主義に対して疑問を感じたとして、いったいどうすればよいのだろうか。
社会をつくる上で、具体的な実践が必要であることはもちろんであるが、私たちは言葉によって考え、コミュニケーションしていることから、使用する言葉に対して立ち止まって考えることが必要であろう。
たとえば、次のように経済用語で語ることが当然のようになっているが、私たちが本当に言いたいことを表現できているのだろうか。
「多くの森林が負債と認識されている」
「里山資本主義が人びとの関心を呼び、森林サービス産業の成長が期待されている」
「森から経済価値を引き出すには、選択と集中が必要である」

私たちは世間に通用するように、言いたいことを翻訳して語っているのではないだろうか。
いや、私たちは自分が言いたいことを表現する言葉を持っていないのかもしれない。
今日の経済社会によって言葉が奪われてきたのかもしれない。
そうであるならば、世間に受ける言葉に頼っていては前に進めない。
近道はないはずだ。
現実の社会を見つめ、未来をまなざし、悶えながら言葉をたぐり寄せる必要がある。

もう一つ、どのように批判的に思考するのかと問いを進めたとき、ここに弁証法がキーワードになるという直感がある。

何をいまさら弁証法と思われるかもしれない。
敗戦後、あるべき社会を構想するために、社会の現実を正しく認識して自分の立場を決めるマルクス主義の科学的弁証法に期待を寄せられた。
私の祖父は1950年に『弁証法とはどういうものか』という新書を書き、当時はかなり売れたと聞く。
しかし、冷戦後の今日、弁証法はかつてのマルクス主義との関係から、あまり積極的に言及されることはないように思われる。
でも、そろそろもっと自由に弁証法について語り、私たちの社会を作るために生かせないものだろうかと考えている。
(これは、個人的には祖父を持ち上げるためではなく魂を鎮めるためでもある。

私が弁証法に関心を寄せるようになったのは、つい最近のことである。小熊英二『基礎からわかる 論文の書き方』(2022年、講談社現代新書)に、フランスではアメリカ式の論文形式とは異なり、弁証法に基づく論文の執筆が教えられていると書かれていた(この本はアメリカ式の論文の書き方を丁寧に教えてくれるので、おそらく学生にとって便利だし、教員にとっても参考になる)。
その後、渡邉雅子『「論理的思考』の社会的構築』(2021年、岩波書店)で、フランス式の弁証法よる小論文(ディセルタシオン)がどのような歴史を踏まえ、どのような言語教育によって教えられているかを学び、文章を読んで論理的と感じられる感覚は普遍的なものではなく、国や文化によって大きく異なること、社会的に構築されることを理解した。
私はフランス式の思考表現がよいと言いたいわけではないが、あまりにもアメリカ式に慣れすぎて、そのことに疑問を思わずに社会を構想することは、表現の幅を狭めていると思っている。
私たちの表現がどのように制約されているのかを知るためにも、弁証法的な思考に注目してよいだろう。

いっとき学校教育にディベートを導入することがはやったが、近年はどうなのだろう。
自分たちの主張が妥当であることを示すために、適当なエビデンスを示しながら、相手からの批判には徹底的に防御して、言葉巧みに論理的な一貫性を誇り、最後に勝敗が決まる。
AかBかを判定するための弁論の闘いである。

ところで、ディベートは何を目指しているのだろうか。
たしかに、勝負事は盛り上がるし、エンターテインメントとして成立する。
しかし、もう少し掘り下げて考えてみると、このディベート教育をよしとする発想の背景には、それぞれが自分の主張の正しさを説明し、その正しさを競い合って勝ち残った者が主張を通すことによって、良い社会をつくることができるという前提があるような気がする。

私はそうした考えに疑いを持っている。
なぜなら、闘った両者には学びがないように思われるからである。
もちろん、それぞれが言語表現を通して、弁論術において学ぶことはあるだろう。
しかし、自己を否定しつつ乗りこえるような認識上の転換を伴う深い学びに達することはなさそうである。
そもそも、そのような志向はディベートに内在されていないだろう。
それは、対立する自己と他者の主張を含みながらも高次の水準で両立させようとする弁証法的な思考がなければ到達できないはずである。

私が、私たちの社会のなかにある貧しさの中でもっとも気になるのは、1人ひとりの言葉が、強者の正しさによって、たやすくかき消されるときである。
何が正しいのか、何が妥当なのか、何が論理的なのか。
簡単に決まることではない。
人びとの異議申し立ては、支配的な社会に対して、生きづらさを感じる立場からの、別の正しさ、妥当性、論理を加えてくれるチャンスであるかもしれない。
そうした合意形成が目ざされるときに、人びとは社会の中に居場所があると感じられるのではないだろうか。

私がNPOの運営に20年も関わってきた理由は何だろうとふりかえると、異なる意見がぶつかったときに、それを弁証法的に乗りこえようとしてきた経験にあると思う。
実際に当初の発想からは思いがけない企画が生まれたり、解決策を練り出すことができたことが数多くあった。
つまり、こうした合意形成の経験が、社会の多様性を肯定し、一人ひとりの生が尊重にされる社会の実現に力を与えてくれたのだ。
そこで大事にされていた言葉や考え方、話し合いの仕方は、選択と集中ではなかったし、環境や社会に経済を優先させるものではなかった。
もちろん、対立を超えていくことは簡単ではない。
自分にとって都合の良いことばかりが起こるわけではなく、むしろ、うまくいかないときが普通の状態であり、その間は苦しいし、苛立つことや泣きたくなるときもある。
でも、それは社会をつくるために必要な衝突であり、必要な忍耐であり、必要な時間であるだろう。

私が思うNPOの価値とは、ミッションの達成することと同程度に、一人ひとりの言葉を大事にしようとするコミュニティの実在を信じ、つねにそうあり続けようとすることにある。

(松村正治)

雨の日も里山三昧