寄り道55 いのちを想う
2022.3.1雨の日も里山三昧
2022年2月21日、ロシアのプーチン大統領はミンスク合意を一方的に破棄し、
24日にロシア軍はウクライナ侵攻を開始した。
武力による現状変更は国際法違反であり、断じて許せない。
一日でも早くウクライナに平和が訪れることを祈るばかりである。
私はこれまでクリミア危機・ウクライナ東部紛争に注意を向けてこなかったので、
ここで付け焼き刃のコメントを加えることは控えたい。
ただ、先日出会ったウクライナ出身のロシア国籍の人(Aさん)のことを想いたい。
2月6日、ヨコハマ市民まち普請事業の2次コンテストがあった。
1次コンテストを通過した6団体のうち辞退した2団体を除く4団体が、
最終提案を発表し、私たち審査員からの質問やコメントに答えた。
そのやり取りには、団体の皆さんが地域との関係をつくりながら
この日のプレゼンテーションに向けて積み上げてきたプロセスが表現されていた。
それ自体比べようもなく美しく愛おしいものであった。
しかし、最大で採択される団体は3つと決まっており、今回も3団体が選ばれた。
さて、Aさんは選外となった団体の応援のために会場にいらしていた。
団体とのやり取りの中で「ウクライナ出身のロシア人」と紹介されてから、
私は2次コンテストの間ずっと、ウクライナ情勢のことが気になっていた。
ロシア軍の侵攻が近いと噂されていたので、
そのような事態に陥らないようにと願った。
コンテンストの最後に、審査員から各団体へ講評を伝える時間がある。
私は選に漏れた団体への講評とともに、
場違いであることは承知のうえで、ウクライナの平和を願った。
Aさんを前にしては、そう発言せずにはいられなかった。
コンテストが終わり、団体の方々、審査員、関係者などが
自由に懇談するフリートークの時間があった。
私はAさんとあいさつを交わすと、
すぐにウクライナ情勢の話題に移った。
ウクライナとロシアの両方にルーツを持っていらっしゃるので、
武力衝突が始まったら、どんなにか辛いだろうと想像しながら、
Aさんの訴えることをきちんと聞きたいと思った。
すると、意外な話が始まった。
Aさんは2つのお菓子を比べて、
どちらがロシアのお菓子で、どちらがウクライナのお菓子か
わかりますかと私に質問を投げかけた。
まったく見当もつかない切り口だったので、
率直にそう感想を述べると、
両国のお菓子の違いについて説明してくださった。
まず、ロシアのお菓子は外箱にロシア語の記述があり、
ビニールの包装は簡単に破れそうなほど貧弱であった。
一方、ウクライナのお菓子は外箱が多言語対応されており、
包装もロシア製に比べるとしっかりしている。
Aさんによれば、ここにも両国の違いが現れているという。
すなわち、ウクライナは欧米から資本が入りこみ、
海外に向けた商品を製造・販売している。
対して、ロシアのお菓子は、昔と変わらず素朴なままである。
Aさんは、ロシアとウクライナの両国にアイデンティティを持っているが、
どちらかと言うと文化を守っているロシアへの思いが強いという。
そう言って、Aさんは私にウクライナ製のパイ菓子をくださった。
日本の報道だけを見ていると、強いロシアは悪、
弱いウクライナは善と判断しがちであるが、
Aさんの考えをうかがって、捉え方の違いを感じた。
Aさんは、旧ソ連時代、農業を勉強するためにモスクワの大学に入学した。
しかし、在学中にソ連は崩壊し、その後日本に留学したという。
ソ連崩壊は私が大学3年生だった1991年のことだから、
それを聞いて、おそらく年齢が近いことを知った。
同時に、国レベルの政治的な動きや混乱によって、
Aさんをはじめとした一人ひとりの人生がさまざまに影響を受け、
大きく翻弄もされてきただろうと思った。
どのような理由かわからないが、いまは日本に落ち着き、
ロシアの文化を周りに伝えながら、日本の文化も学ぼうとされている。
同年代の一人の人として、素敵に感じた。
このようにAさんという個人を通してロシアとウクライナの関係を見ると、
報道による情報を頼りにした見え方とはまったく違うように見える。
つまり、今回の軍事侵攻について、地政学的な観点、土壌(チェルノーゼム)の特徴、
ウクライナ/ロシア史の経緯などから説明を受けて、
理解するのとは別の水準に、もっとも大事なことがあること。
これを思い起こさせ、気づかせてくれるのだ。
戦争が始まり、弾が飛び、炎が上がり、建物が粉々になる。
人びとは傷つき、いのちが潰える。
その人が生きた時間が止まる。
その人が愛した人、その人を愛した人と、言葉を交わせなくなる。
哀しむ人、憎む人が増える。
対話に望みを託す人が力をなくす。
一人ひとりについて、このような悲しい出来事が起こり、
戦死者が増えると、それが当たり前になっていく。
死に慣れてしまう。
人間であることをやめる。
人が人のいのちのことを想うことがなくなったら、
人として生きる価値なんてあるのだろうか。
(松村正治)