第108回 ハンナ・アレント『責任と判断』
2022.4.1雨の日も里山三昧
ハンナ・アレント『責任と判断』(ちくま学芸文庫、2016年)
2020年7月から、南房総で地域づくりに関わっている人たちが中心になって開いているオンライン読書会に参加している。
なぜか通信手段にはLINEを使っているので、お互いの表情は見えない。
レジュメはGoogleスプレッドシートで共有し、その文字を追いつつ、声が交わされる。
私が参加してからは、真木悠介『時間の比較社会学』、浅田彰『逃走論』、鶴見俊輔『限界芸術論』、ジェイン・ジェイコブズ『発展する地域 衰退する地域』、國分功一郎『中動態の世界』を取り上げてきたが、最近読み終えたのが本書であった。
テキストは参加者が推薦した本のリストの中から、1冊を読み終えた後に投票によって決められる。
結果的には、地域づくりに即効性があるとは思えない本(ジェイコブズは関連が強いが)が選ばれてきた。
中心メンバーは、古民家を再生したヤマナハウスという活動拠点で里山の資源や空間を生かした地域づくりを進めている。
そのかたわらで、古典と呼ばれるようなこうした本を読み、オンラインで議論していることが面白いと思って、私は参加を続けている。
本書は、哲学的な議論に慣れていないと読み解くのが難しい部分が多い。
しかし、アレントの冷徹な分析から導き出されるメッセージは、比較的シンプルで力強く、私の思考や行動に影響を与えているように思う。
いろいろな言葉の中でも私が強く心に留めたのは、「思考は心が沈黙のままに自己と行う対話」であり、「すべての人間は自己と話し合う必要がある」という言葉である。
ここでは他者との対話ではなく、自己との対話の重要性を強調している。
もちろん、この議論の背景にはアレントが経験したホロコーストがある。
なぜドイツ社会のすべての階層の人びとがナチスと同一化して考える力を失い、あたかも当然であるかのように殺戮計画に協力したのか。
この事実をもとにして「凡庸な悪」に鋭いメスを入れる。
ロシアによるウクライナ侵攻中の現在、本書中のアレントの言葉がリアルに響く。
ただし、自己との対話の重要性は、戦時中だけに限定されるわけではなく、もっと一般化して受けとめた方がよいだろう。
私の場合、人間として生きているかぎり、ありたい自分であろうとするかぎり、自己と対話する時間は大事であると確認できたし、もっと意識的にその時間を作る必要があると感じた。
自己との対話を私の関心に近づけると、それは当事者研究ともつながる。
自己との対話は、自分が何者なのであるのか、何のためにこの世界に存在するのかなど、答えのない本質的な問いを呼び起こす。
こうした問いは、いつも私たちの頭の片隅にあるはずだが、通常は日常の生活をつつがなく送るのに精一杯で脇に置かれている。
それが、病気を患ったり、失敗をやらかしたり、仕事や学びの環境が変わったり、あるいは、この世界の中で手応えのようなものが感じられなかったりして、あらためて自分を見つめ直すとき、自己との対話を通して伏在していた問いが起き上がり、頭の中に広がっていく。
そのプロセスを経て、いったん何かしらの答えを出して次の段階へと進む。
たとえば、これまで続けていたことをやめる、新しいことを始めるなど。
それも、はたから見て目にみえる変化もあれば、意識を変えてみるというような外からは見えにくい変化もあるだろう。
自分について掘り下げて考えていくとき、なぜ自分はこのように世界を認識し、良し悪しなどと考えるのだろうかと、自分が依って立つポジショナリティ(立場性)に関心が向かうときがある。
それは、周りの人びととの関係がうまくいかないとき、好きな人と言葉を尽くして話してもよい話ができないときなど、自己と他者との関係を考えざるをえないときに、そのような思考へ向かいやすい。
なぜ私は、あることについては強い関心を抱くのに、別のあることはどうでもよいと思うのか。
なぜあることには積極的なのに、別のあることには消極的なのか。
なぜあることには雄弁であるのに、別のあることには口をつぐむのか。
こうした問いに答えようとすると、自分の経験をふりかえり、自分をめぐる社会関係、自然との関係を見つめ直すことになる。
自己との対話によって自らに向けられたベクトルは、自分の傷や弱みを照らすとともに、生きる歓びの源泉にも気づかせる。
同時に、その反作用として、自分にとって切実な問題をも指している。
おのずと自分は問題の当事者になっている。
このような対話をくぐり抜けて立てられた問いは、その人そのものである。
その問いに応えようとする当事者研究はユニークであり、正解がないからこそ、問い続けるライフワークとなりうる。
それは、よく生きるための果てしない探究であり、自分と出会ための終わりなき旅である。
私はこの水準の当事者研究に関心があるし、自分でも試みようとしてきた。
また、多くの人びとにも当事者研究を深めてほしいと思っている。
なぜ私はこのような意味での当事者研究をすすめるのか(当事者研究は、いろいろな意味で用いられる)。
きちんと説明しようとすると論理的には破綻するかもしれないが、直感的に言えば平和のためである。
自分が自分を生きることが、他者と生きる上で大事だと考えているからである。
もちろん、他者のことなど気にせずに利己的に生きよといいたいわけではない。
それでも、他者を気にしすぎて自分を生きていないのではないかを、自分を含めて、ときどき胸に手を当てて考えるといいとは思っている。
私が当事者研究というとき、すぐに思い浮かぶものが2つある。
1つは大学院に社会人入学してくる方々の研究である。
いろいろな方がいらっしゃるが、仕事をしたり子育てをしたり親を介護したり自ら病気を得たりといった経験を通して、自分の中に問いが生まれ、これをしっかりと考えてみたいと踏み出された研究は、ほとんどが大変ユニークで面白い。
しかし、その人の問いがあまりに大きすぎるので、その問いには十分に応えられないことも少なくなく、学術的には玉石混淆である。
しかし、人生をかけて追い求める価値のあるテーマと出会い、その問いにどうアプローチすべきか手応えをつかめたとしたら、それはお金には代えられない大きな財産となるだろう。
もう1つは公害被害者による当事者研究である。
3月29日(火)、梨の木ピースアカデミーで私が担当する6回連続講座「誰ひとり取り残さない環境論―持続可能な社会に向けて公害・環境問題を歴史する」では水俣病を取り上げた。
今期(3~5月)は、これまでの講座のアーカイブ録画を見て、参加者のみなさんと話し合い、考え合うことにしている。
この日は、「2020年代に水俣病を考える―「終わらない公害」の意味を掘り下げる」とテーマを設定して、永野三智さん(水俣病センター相思社)と吉永理巳子(水俣病を語り継ぐ会)をゲストにお招きした2回分の録画を視聴した。
永野さんは『みな、やっとの思いで坂をのぼる—水俣病患者相談のいま』の著者であり、吉永さんは『水俣から―寄り添って語る』に講演録が掲載されており、NHK証言アーカイブスでも語りを閲覧できるなど、おふたりとも水俣病の関係者の間では著名な方である。
私もそうしたメディアを通じて知り、水俣を訪れたときにお目にかかったのだが、なぜおふたりにご出演をお願いしたのかといえば、それは当事者研究のよいモデルだと思っているからである。
永野さんも吉永さんも水俣のご出身であり、水俣病はごくごく身近な存在だったが、水俣病からは避けて生きていた。
それが、それぞれのタイミングで、水俣病と向き合うことになり、それは自分の傷や弱さとも向き合うことでもあり、語る言葉・伝える言葉を得て自分を生きている。
この当事者研究のもつ可能性、人を自由にしてその人らしさを引き出す力、そして、人と人がともに生きる社会をつくり出す力を私は信じている。
本書の中でアレントが強く訴える「自己との対話の重要性」を、ここでは当事者研究につなげて考えてみた。
現時点では、牽強付会に感じられるかもしれないが、この論理のギャップを埋めていくことが私のライフワークであるように思う。
最後に蛇足ながら、当事者研究に絡めてもう一言。
先日、宮内泰介さんがある研究会で「市民社会の当事者研究が社会学」とおっしゃったが、この社会学の捉え方は魅力的だ。
ただし、ここでの市民社会とは、自立的個人たる市民によって構成される社会ではなく、すべての人に開かれた社会、という意味だと思う。
私は社会学者だと自認しているが、それは(市民)社会の当事者研究をしている者という意味である。
だから、このコラムの論理をたどると、社会学をする人びとが増えると平和が訪れることになる。
このロジックは滑稽に聞こえるが、半ば本気で私はそう信じている。
(松村正治)