第105回 『不安な質問』(企画:たまごの会)
2021.10.1雨の日も里山三昧
『不安な質問』(85分、松川八洲雄監督、1979年)
この映画は、都市に暮らす消費者が自給をめざして立ち上げた「たまごの会」の記録映画である。
先日、この団体のキーパーソンで、映画制作ではプロデューサーとして関わった故・湯浅欽史さんを偲ぶ追悼座談会の記事を読む機会があったので、このタイミングでこの映画を取り上げてみようと思った。
私が「たまごの会」のことを知ったのは、1990年代の終わり頃だったと思う。
しかし、そのときは1970年代に試みられた有機農業運動の1つとして受け止めた。
それが、太い線として意識するようになったのは2010年のことである。
多摩ニュータウンの初期入居者に生協運動を中心とした聞き取り調査をおこなっていたとき、「たまごの会」に話が及んだのだ。
私が特にお世話になった方が、かつて永山地区の世話人を務めていたことがわかり、にわかに重要な存在として感じられるようになったのである。
だから、「たまごの会」との出会いは関係者の語りを通してであった。
今からちょうど50年前の1971年。多摩ニュータウンの諏訪・永山地区で第一次入居が始まった。
当時、インフラが十分に整備されていない陸の孤島に置かれた新住民たちは、主婦層を中心として、生協運動、共同保育運動、図書館活動、公害反対運動等を展開した。
まちが未完成であったために、新住民にとっては参加の余地が十分にあったことと、地域共同体のしがらみから無縁だったことから、活発で多様な市民運動が広がったといえる。
そうした運動のなかには、現代の感覚からするとラディカルに映るものが少なくなかった。
道路建設反対運動では、主婦たちが幼子とともに、ときには赤子を抱いて建設工事を阻止するために現場に座り込み、徹底的な抗議活動をおこなった。
「たまごの会」の活動も同様に、運動が熱を帯びていたその頃の雰囲気がよく伝わってくる。
当時、安全な食べ物を求めて消費者が共同購入する運動はいくつも存在した。
その中から運動を突き動かしていた問題意識を深め、そのまま実践の中に純化・伸展させたのが「たまごの会」であると思われる。
自分たちで農場を建設し、食べ物を「つくり、運び、食べる」を実践した。
この映画には、「たまごの会」が1974年に茨城県八郷町(現在の石岡市)に農場を建設してから約5年間の活動の様子が記録されている。
会員たちは松林を切り拓き、建物を造り、田畑を耕し、作物を育て、家畜を養う。それを、都市に暮らす会員のもとへ自分たちで届け、食べる。食べた後の残りは、また農場に戻り、家畜の餌になる。
なかでも、団地の中に農場産の大量の野菜とともに1匹の豚の頭が届けられ、台車に乗せられ運ばれていくシーンは印象的だ。通勤に出かける近隣住民は、都市にあるまじき異物に目を向ける。
この話は聞き取り調査で何度か聞いたことがあったので、その様子を映像で確認することができて感慨深かった。きっと、豚の頭を運んでいるとき、会員は誇らしかったのではないか。
そのほか、世話人会の討論、農場での結婚式、歌謡曲の合唱、農薬空中散布への抗議なども記録されている。
当時の会員たちがまっすぐに社会の矛盾と向き合い、オルタナティブな食のあり方を示し、あるべき社会を実現しようとしていた姿が伝わる。
その理想へと突き進む行動力と、そうした夢を持ち得た時代に対して、私は少し羨ましく思いながらも、一歩引いた覚めた目で映画を鑑賞した。
この運動については、いろいろな角度から解釈できるだろう。
半世紀前と今日を比較して、時代が違う、時代が変わったのだと思うこともできる。
実際、多摩ニュータウンの住民運動について調査をおこなうと、当時の様子をお話しくださる方は決まって「時代」を持ち出してご自身の行動をふりかえられる。
同じまちに多くの子育て中の主婦がいたこと、学生運動の影響が残っており公害・環境問題への関心も高かったこと、有機農産物を入手することが困難で安全な食べ物を求めるためには自分で動く必要があったことなど、いくつもの違いを挙げることができる。
あるいは、会員たちが武者小路実篤の「新しき村」や意識していたかわからないが、全共闘世代を中心に1970年頃から各地で試みられたコミューン運動の1つと位置づけることもできるだろう。
東大闘争以降、学生運動が下火になっても、かつての日常に戻ったわけではない。
運動の経験は、直接的に闘争にかかわったかどうかにかかわらず、当時を生きた人びとに少なくない影響を与えた。
現代社会の構造的な問題に気づき、当事者性を感じた人びとは、その後、政治体制の変革を目指すのではなく、欲しい未来のライフスタイルと社会のあり方を自分たちで実践しようとした。
その点は、NORAの活動とも重なるところが多く、私は深く共感する。
さらに、組織論からアプローチするならば、コミュニティが高揚感とともに立ち上がり、しばらくすると熱気が冷めて停滞し、それぞれの価値観の違いやライフステージの変化とともに亀裂が広がって分断するというライフサイクルが映し出されているようにも思える。
1974年に会員たちが農場をつくり、自給を目ざして農業・畜産に挑戦していく際のパワーに圧倒されるが、そのスタート時の入れ込み方では活動が持続しないだろうと予感させる。
活動を継続していくにつれて、肉体労働の連続による疲労、および都市と農村の生活格差からくる潜在的な不満が蓄積していくように感じた。
実際、この映画が完成した1979年は、すでに停滞期に入っており、1982年には分裂した。
私はその事実を知ってから映画を観たので、後知恵による解釈であることは間違いない。
それでも、NPOの例でも、団体を設立後、4-5年で停滞期に入り、7-8年で解散することはよくあることなので、一般的なコミュニティサイクルをなぞっていくプロセスにも映る。
「たまごの会」は、1979年にこの自主映画を制作したほか、絵本『たまごの会の本』も自主制作し、さらに『たまご革命』(三一書房)を商業出版した。
どの作品もそれぞれに味があって、時代を映し出す貴重な資料である。
1982年の分裂については、明峯哲夫さん、湯浅欽史さん、高松修さんなど、その後に当事者がそれぞれ書いたものが残っている。
さらに、農場建設40周年を記念して出版された『場の力、人の力、農の力。―たまごの会から暮らしの実験室へ』(コモンズ、2015年)は、元会員や関係者、現在は「暮らしの実験室」として農場を引き継いでいる人たちによる文集であるが、このなかでも数人がふれている。
分裂にいたった原因として路線の違いがあったと言われる。
のちに契約派と言われた人たちは、地元農家に有機農業への転換を促し、都市消費者が農家を買い支えることで農業と都市の暮らしを変えようとした。
一方、農場派と言われた人たちは、「つくり、運び、食べる」にこだわり、一般的な有機農業運動ではなくて消費者自給農場運動を目ざした。
契約派の方が都市消費者としての主体性が明確でわかりやすい主張のように感じるが、心情的には状況に合った考え方に思われる農場派に共感する。
自ら農業・畜産を始めたからには止めることができない。それは自分の意志を超えたものであろう。
そのような流れのなかに没入し、変わっていく自分を肯定したいと、私だったら思うような気がする。
また、契約派には周辺農家を啓蒙しようという視点の高さも気になる。
一方で、問題は都市の暮らし方にあるのだと自覚しているので、自分の持ち場は都市にあると定めて、そこでの闘い方・抗い方を考えたいとも思う。そうなると契約派と同様の考え方になるだろう。
つまり、私の場合、2つの路線のどちらかを選ぶことができず、両立させたいと願うことに気づく。
しかし現実は、若さゆえに言葉が足らなかったのか、路線の違いという論理的な必然か、よくあるコミュニティサイクルの終焉か、分裂にいたった。
それでも、その後約40年が経過して、「たまごの会」にかかわった人びとは、それぞれの経験を心に大事にしまいながら、自らの人生を歩んでいる。
すでに亡くなった方々も少なくないけれど、農場は次の世代に引き継がれ、その継承者から農場建設40周年の本を出しましょうと提案があり、前期の本が刊行された。
会員が負った傷や痛みは無駄ではなかった。
それは当事者にとってだけではない。
この運動の歴史は、自分たちの未来を少しでもマシな方向へと変えていこうと考える私たちにとっても、また学ぶことの多い重要な経験である。
(松村正治)