雨の日も里山三昧

寄り道16 里山の遺産を生かしたコミュニティの可能性

2014.11.1
雨の日も里山三昧

前回に続き、ある本の1章分として書いた草稿です。
高校生・大学生向けに書きました。

里山の遺産を生かしたコミュニティの可能性―持続可能な地域づくりの観点から

はじめに
昔話『桃太郎』の冒頭に、「おじいさんは山に柴刈りに、おばあさんは川へ洗濯に行きました」という一文がある。この定型の語りは一昔前の里山の日常を描写したものだが、平成生まれの学生たちは、この意味を誤解していることが多い。
おばあさんが川へ洗濯に行くことは想像できる。現代の都市生活の場合、洗濯機の中で洗い、すすぎ、脱水が自動的に進んでいくものの、その工程は女性たちが川で作業していた時代とあまり変わらない(もちろん、洗濯の時間は大幅に短縮され、自由な時間は増えたのであろう)。
一方、おじいさんの行動には、引っかかるところが2つある。1つは、「山」という言葉である。「山」と聞くと、周囲よりも高く盛り上がった地形と理解し、富士山や高尾山のような山をイメージするかもしれない。しかし、日常的におじいさんが登山に出かけることはない。この場合の「山」は、集落のそばにある森や林という意味である(民俗学では、誤解を避けるために「ヤマ」と表記する)。
もう1つ間違えやすいのは、「柴刈り」という表現だ。これは、ゴルフ場にあるような「芝」を刈ることではない。「柴」とは小さな雑木やその枝のことを指す。一昔前の暮らしでは、煮炊きや風呂などの燃料用に薪や炭を常備し、柴は焚き付けなど補助的に利用した。したがって、おじいさんは、燃料とする柴を刈るために近くの山野へ行ったのである。
かりに、これらの点を誤って理解していたとしても仕方がないだろう。今日の日本社会には、こうした暮らしがほとんど見られないのだから。一昔前までは、集落近くの自然から恵みを頂きながら暮らすことが普通であった。それでは、いつ頃から人びとの生活のあり方が変化し、身近な自然との関係が薄れていったのであろうか。
本章では、特に人間と自然の関係に着目し、まずは私たちの暮らしがどう変わってきたのかを振り返っていく。そして、便利で快適な生活を求めた結果、経済的には豊かになった反面で手放してきたことを見つめ直し、私たちが自然とどう付き合っていくべきかについて考えてみたい。

1.高度経済成長期の燃料革命
日本の昔話に描かれる暮らしでは、必要なエネルギーを薪(柴を含む)や木炭に頼っていた。この生活環境には、石油や石炭、天然ガスといった化石燃料(fossil fuel)は出てこないし、もちろん、電気も通じてない。
日本で最初にガス灯がともったのは1872(明治5)年の横浜であり、人びとが初めて電灯を目にしたのは1882(明治15)年の銀座である。このように、明治初期から化石燃料は利用されていたが、一般家庭に普及するまでにはしばらく時間を要した。家庭用の燃料が薪炭から化石燃料へと大きく切り替わったのは戦後のことで、時期的にはちょうど高度経済成長期(1950年代中頃~1970年代初め頃)と重なる。
1955年時点では、家庭用燃料の多くは木炭や薪であり、化石燃料の中では石炭(練炭・豆炭は石炭が原料)が利用されていた。それが、1960年頃から電気・ガス・灯油が急速に普及したため、1970年代初頭には、薪炭はほぼ利用されなくなった。この燃料利用の劇的な推移は燃料革命と呼ばれる。およそ十数年間、日数にしてわずか約6,000日の間に、エネルギーの消費構造は根本的に変化したのである。
高度経済成長期に、日本経済は平均10%という未曾有の経済成長を経験し、1960年代後半には、イギリス、フランス、西ドイツを抜き、米国に次ぐ経済力を誇るようになった。この間の象徴的な出来事として、1964年の新幹線開業と東京オリンピック開催を挙げることができる。産業構造も大きく変化し、1950年には日本人のほぼ2人に1人は一次産業に従事していたが、1970年には5人に1人以下に激減、一方でサラリーマンとして働く人の割合はほぼ3人に2人に上昇した。人びとの生活の利便性は向上し、1950年代半ばから、電化製品の「三種の神器」としてテレビ・冷蔵庫・洗濯機が普及し、1960年代中頃からは、カラーテレビ・クーラー・自家用車の「3C」が普及していった。
しかし、急速な経済成長は光とともに影ももたらした。その代表が公害であろう。4大公害病と呼ばれる水俣病、新潟水俣病、イタイイタイ病、四日市ぜん息のほか、各地で公害にともなう健康被害や農作物被害等が発生した。これに対して、国は公害対策関連の法律を整備し、環境庁(現:環境省)を発足させるなどして対策に努め、次第に国内の公害は軽減されてきた。一方で、1980年代半ば以降になると、地球温暖化に代表される環境問題がクローズアップされるようになり、高度経済成長期以降、化石燃料の消費を増加させてきたライフスタイルが問題視されるようになった。

2. 持続可能な里山バイオマスの循環利用
石油・石炭・天然ガスなどの化石燃料は、動物や植物の遺骸が地中に堆積し、数千万~数億年に及ぶ長い年月をかけて変成してできたものである。化石燃料は、燃焼させれば地球温暖化の原因とされるCO2が発生するし、埋蔵量にも限りがあるため、永続的に利用し続けることはできない。これに対して、燃料革命以前に使用していた薪炭は、化石燃料と違って同時代の植物から得られるバイオマス(biomass)資源の1つである。
化石燃料もバイオマスも、もともとは太陽エネルギーが蓄えられたものだが、化石燃料が地質年代に及ぶ長い時間をかけてできるのに対して、バイオマスは数年~数十年かけてできる。この時間スケールの違いが両者の環境性能を分けることになり、化石燃料は燃やせばCO2が増加するだけだが、バイオマスは燃焼させてCO2が生じても、植林すれば光合成の過程で吸収できるのでCO2は増えないとされる。この特長は炭素中立=カーボンニュートラル(carbon neutral)と呼ばれ、温暖化を緩和する低炭素社会(low-carbon society)に向けて重要である。
化石燃料を大量に使用することは、将来世代が使用できる化石燃料を減らしてしまうという点と、温暖化を進めることで将来世代の環境が悪化する可能性が高くなるという点で避けるべきであろう。これは、現在世代と将来世代の世代間公平に関わる環境倫理の問題である。そして、こうした問題を考えるために、人間の活動が将来にわたって持続できるかどうかを表す持続可能性=サステナビリティ(sustainability)という概念がある。化石燃料に依存する社会は長く続かないだろうが、バイオマスを利用する割合を高めていけば、社会の持続可能性は高くなるに違いない。この持続可能性という観点から社会のあり方を考えたとき、日本では里山が見直されるようになった。
ところで、「里山」には決まった定義がない。この言葉は17世紀の近世文書にも登場するが、国語辞典に「里山」が新語として登場したのは『広辞苑』第5版(1998年発行)が最初である。そこには「人里近くにあって人々の生活と結びついた山・森林」という説明が与えられている。これは、人里から離れた「奥山」に対して、身近な森林を「里山」と呼ぶという用法に基づいている。しかし最近では、近くにある森林だけでなく、農地、草地、集落なども含めて、農村空間の全体をまとめて里山と捉えることが多い。
里山をモデル的に描くと、伝統的な農村の中心にムラ(集落)があり、その周りに田んぼや畑、日常的に出掛けていくノラ(農地)があって、その先にヤマ(林野)がある。ここのムラ-ノラ-ヤマが「里山」で、集落の人びとが自分たちの領域として意識している範囲である。さらに、その先にはオクヤマがあり、ここは野生動物の世界となる。
それでは、里山と関わる暮らしの持続性について、雑木林を例に説明しよう。国木田独歩の『武蔵野』が描写する雑木林は、落葉広葉樹のクヌギやコナラを主体とした薪炭林である。クヌギやコナラの特長は、いったん伐採すると、切り株から芽が出てくることにある。この萌芽の中から適当な数本を残して成長させると、15年程度で薪炭として適当な太さになる。このように定期的に伐採して再生を図ることを萌芽更新と言う。萌芽更新できる樹種の場合、いちいち苗木を植えて育てる必要がないので手間が省ける。雑木林にクヌギやコナラが多いのは、人びとが萌芽更新に適した樹種を選択して増やしたり残したりしてきたからである。
里山の雑木林では、15年程度の周期で伐採地を少しずつ変えながら、そのサイクルの中で得られる落葉や薪炭材を利用していた。しかし、燃料革命以降、薪や炭を使うこともほとんどない。また、落葉から堆肥をつくる農家は少なくなり、多くは化石燃料由来の化成肥料で済ませている。かつて里山の雑木林では、バイオマスの循環利用が見られたが、今となっては、ほとんど機能しなくなっている。

3.生物多様性を保全する上で重要な里山
 里山には、雑木林だけでなく、田んぼや畑、草地、ため池、水路、屋敷林、竹林など、多様な景観要素がちりばめられているので、モザイク状と表現されることがある。この景観は自然が織りなす技ではなく、人びとが自然とともに築き上げてきた共同作品である。
ヤマを例に取れば、マツやスギやヒノキなどは建材となり、また枯れ葉は燃料になる。クヌギやコナラは薪や炭の原料となるし、落ち葉は堆肥にする。竹林は竹細工の材料になるし、食用(タケノコ)にもなる。茅場(かやば)からは草を採ってきて、家畜の飼料や敷料にしたり、屋根材にしたりする。一方、ムラを例に取れば、水田からは米が採れるし、雑草や魚を捕ったりもする。畑では食料として小麦やイモ、野菜などを採る。ため池からは肥料のほか、魚を捕ったりもする。このように、農村に暮らす人びとは、ヤマやノラから恵みを頂いていたから、そうした生活を成り立たせるため、集落の周りにバラエティに富んだ景観をつくったのである。
しかし、このような里山景観は、大変な勢いで失われている。ヤマは、薪炭林・農用林としての価値を失ったので、開発されて、住宅地、工場、ゴルフ場等への転換が進められてきた。開発されなくても、人手が入らないために植生が遷移して、森林の荒廃、ため池や草地の減少、竹林の拡大が進行している。ノラでは、過疎高齢化が進んで耕作放棄地が増え、地域景観を悪化させるとともに、防犯・防災上の問題ともなっている。このように、量と質の両面から、かつての里山の姿は急速に消えつつある。
里山を放置すると自然の遷移によって藪のような状態になり、明るい環境が少なくなる。これは、自然の流れにまかせて自然に戻るのだから良いと考える人がいるかもしれない。自然は人間の影響が少なければ少ないほど良いと考えるならば、その通りであろう。しかし、生物多様性(biodiversity)を重視する現代の自然保護の考え方では、適切な人間の関与が必要な場合があることを否定しない。むしろ、人間と自然が深く関わる里山のような領域では、生物の多様性を守るために、人間が自然に対して積極的に働きかけていくべきだという考え方が当然となっている。
この生物多様性とは生命の豊かさを包括的に示す概念で、生態系・種・遺伝子の3つのレベルの多様性で捉えられる。1992年にリオデジャネイロ(ブラジル)で開催された地球サミットで生物多様性条約が採択されてから、地球規模の環境問題を論じる際の重要なキーワードとなっている。
人間が里山と関わらなくなり、林の環境が変わった結果、姿を消している植物の例としてカタクリ(ユリ科)がある。かつて、カタクリは里山の雑木林に普通に見られた春植物であった。冬の間に葉を落とす落葉樹林に生え、早春に林床まで届く日光を一身に浴びて育ち、林の木々が葉を付けるまでに咲く花である。しかし、人びとが雑木林に手を入れなくなると、南関東ではシイやカシなどの常緑樹が増え日光が林床に届かなくなり、カタクリは土中から出てこなくなってしまう。このように、林地として残っていても、人間の関与がなくなり、環境の質が変わることで絶滅へと向かっている生きものが存在するのだ。
今日、日本の生物多様性は、4つの危機に直面していると言われている。第1の危機は、人間活動の強い影響で生物が絶滅の危機にさらされることで、例えば、乱開発や乱獲、オーバーユースの問題である。第2の危機は里山の危機とも言われるもので、アンダーユース(過少)による問題、つまり、カタクリ生息地の減少に見られるように、人間が自然に関わっていた度合いが少なくなったことによる危機である。第3の危機は、外来種や自然界にはなかった化学物質などが環境中に放出されたことによる問題。さらに、第4の危機として、地球温暖化による世界的な危機もある。
これらの中で、里山の危機はあまり理解されていない問題であろう。しかし、絶滅危惧種は、白神山地や屋久島のように人間が関わりにくい原生的な自然よりも、人々の生活環境に近い里山に多く集中している。また、かつては身近にいたメダカやギフチョウなどの絶滅危惧種は、残された里山を貴重な生息地としている。こうした事実が明らかになったため、生物多様性を保全するうえで里山は重要なエリアであるとして、国はさまざまな保全策を講じるようになった。2002年に策定された「新・生物多様性保全国家戦略」では、里山への手入れ不足が日本の生物多様性を脅かしていると明記された。2007年には、持続可能な社会のモデルとして日本の里山を世界に発信していく「SATOYAMAイニシアティブ」が提唱された。いまや、国を挙げて里山保全を図っていると言える。
また、里山の生物多様性に注目するならば、そこに暮らす人びとの文化の多様性にも注目しよう。人びとは、地域ごとに、いつどのように身近な自然に働き掛けたらいいかというローカルな知恵や技を守ってきた。たとえば、かつてのため池では、定期的に水を抜き、魚を捕って食料にしたり、底泥を水田に戻して肥料にしたりなどして、過剰な栄養分を除去し、池の水質を維持していた。この池干し作業の際には、地域の長老が池の栓をたくみに抜くのであるが、そうした機会がなくなると、ため池とともに暮らす知恵や技も消滅する。そして、冒頭に示した昔話の意味が通じなくなっているように、自然とともにある言葉も失われている。
地域には、人びとが継承してきたローカルな知(local knowledge)がある。おそらく、長ければ数百年~数千年という単位で親から子へ、子から孫へと受け継がれてきたものであろう。それが、燃料革命後約50年の間、人々が自然に関わらなくなったために、地域に根ざした知恵や技、文化が失われつつある。つまり、里山では生物多様性だけではなく、文化多様性もなくなりつつあると言える。だから、里山を守ることは、地域の自然遺産を守ると同時に文化遺産も守ることに繋がるのである。

4.将来を構想するための里山というモデル
 ここまで、里山のバイオマス資源を循環的に利用することが持続可能であること、人びとが里山に手を入れていたことで生物多様性が高かったことを説明してきた。しかし、こうした特徴を持つ里山は、現代の日本にほとんど残っていない。そればかりか、過去の里山においても、常に良い環境であったとは言いがたい。実際、今日では緑に恵まれた里山林でも、過去にははげ山だったり草地だったりしたところが多いとわかっている。日本人が里山を持続的に利用してきたとは言えないし、日本列島における人びとと里山のつきあい方も一様ではなかったのだ。
したがって、たとえば、日本の「生物多様性国家戦略2010」(環境省)に謳われている次の記述は不適切である。すなわち、「日本人は自然と対立するのではなく、自然に順応した形でさまざまな知識、技術、特徴ある芸術、豊かな感性や美意識をつちかい、多様な文化を形成」してきたので、「(里山に見られるように)限りある自然や資源を大切にしてきた伝統的な智恵や自然観を学ぶ」べきと説かれている。ここには、自国や自民族の伝統的な文化や価値観などを広めてゆくことで、環境問題が解決すると考えるエコ・ナショナリズム(eco-nationalism)の思想が認められる。こうしたイデオロギーに基づく里山賛美に対しては、現在から見て望ましい過去の一面だけを持ち上げ、目をつぶりたい過去を切り捨てる歴史の語り方を批判すべきである。そのためにも、各地の里山の歴史を学ぶことから、その景観がダイナミックに変化してきたことや、地域ごとに異なる多様な姿を現してきたことを理解することは大切である。
けれども、日本で持続可能社会や自然共生社会を想い描くならば、ビジョンとして里山イメージを念頭に置くのは適当だと思われる。2008年のリーマンショック、2011年の東日本大震災などを経験して、資本主義が進化した先のリアリティのない暮らしよりも、身近な自然の恵みを生かしながら、地に足のついた生き方、生の実感がある暮らし方を目ざす人が目立つようになってきた。さらに、時代の精神として、これまで欧米に追いつけ追い越せと、遠く海外に理想社会のモデルを見出してきた日本社会が、足もとにある豊かな資源や文化を見つめ直すようになった。こうした背景から、現代において里山イメージは、過去を懐かしむためではなくて、人間-自然のあり方を構想する際の理念的なモデルとして有用と考えられる。
多くの人びとは、手入れの行き届いた田んぼや雑木林を眺めると、その美しさに心を動かされる。その風景には、人と自然の関係の履歴が埋め込まれ、景観の細部には人びとの暮らしの痕跡が認められる。現代の日本社会では、理想的な景観イメージがゆるやかに共有されており、里山という言葉はそのイメージを表象しているのだろう。新しい人と自然の関係を模索していくときには、こうしたイメージの共通基盤を活かすべきと考えられる。

5.現代における里山ビジネスの可能性
里山を守ると言うと保守的な考え方に聞こえるかもしれないが、現代社会において里山は、新しい価値が創造される場であるとも期待されている。2013年に出版された『里山資本主義』(→リンク)は、出版不況のなかでも30万部以上売れ、中央公論新社の2014年新書大賞に選ばれた。
里山資本主義とは、地域の中に眠っている宝、身近な里山の恵みを生かして経済活動に積極的に結びつけていこうとする考え方である。市場からの貨幣調達に依存するマネー資本主義は、リーマンショックでその限界を露わにしたので、これとの対立軸を示し、別の有り様を示すために考案された造語だ。この本は、里山の資源をたくみに生かした国内の先進事例を紹介し、課題山積の日本を救うヒントが里山にあることを示している。
「里山は大事だけれども守るのは困難」と嘆くばかりでは将来の展望が開けない。しかし、発想を転換すれば、「里山の資源は使われていない。それは、無料で利用できる資源があるとも捉えられる。そうであれば、地域の里山資源を生かして、新しいコミュニティビジネスを展開しうる」と考えることも可能だ。特に地方では、利用されていない里山の面積は広大で、豊富な未利用資源が眠っている。これをビジネスに生かすことができれば、新たな雇用を創出できるかもしれない。もちろん、里山では太陽エネルギーを受けて蓄積されるスピード以上に利用していくと持続可能性を失う。それでも、里山資源を経済活動に適切に結び付けていけば、現行の資本主義に対して、このシステムの脆弱性を補完できるまで成長できるのではないか。
ここで、最近注目されている里山ビジネスの事例を2つ挙げよう。1つは、花札の役(猪鹿蝶)をもじった「猪鹿庁」(→リンク)という里山保全組織である。近年、里山を管理しなくなったので、野生動物が集落やその近くまで侵入するようになり、深刻な農業被害が発生しているほか、人的危害が起こることもある。過疎高齢化が進む農村では、集落を維持するだけで精一杯なので、丹精込めてつくった農作物が荒らされると、精神的なダメージも大きくなる。そこで、里山に生息する猪や鹿などを捕らえ、その肉として加工して売ることでビジネスにしていこうと試みる若い人たちの集団がある。
2つめに紹介するのは、日本の里山文化と世界をつなぎ、岐阜県飛騨地方を中心にフィールドでの体験活動をおこなうための「SATOYAMA EXPERIENCE」(→リンク)というウェブサイトある。里山の風景は、日本人から見るとありふれた田舎と思うだけかもしれないが、外国人からすると美しい景観に見えることがある。ここで人気が高いツアーが、「飛騨里山サイクリング」である。自転車を通して眺める里山の景色こそが、伝えたいありのままの姿であるという。このように、里山がコミュニティビジネスの材料を提供していく可能性はあるだろう。

6.都市住民が里山保全に関わる意味
農村と違って都市では、豊かな資源を抱える広い里山が残されていない。しかし、あらためて里山と関わろうとする試みはある。それが、市民による里山保全のボランティア活動である。
伝統的な里山への手入れは、環境保全を目的としたものではなく、生活に必要な資源・エネルギーを得ることが目的であった。結果として、里山生態系は豊かであったかもしれないが、それ自体を目ざした活動ではなかった。これと比較して、市民による里山保全活動は、環境保全を目的に、里山の生物-文化多様性を守ることを目ざしておこなわれる。
こうした動きは、1980年代に大阪・横浜などの都市近郊で市民による里山保全運動として始まり、その後全国に広がっていった。近年では、行政の環境施策の中に里山保全が位置づけられ、行政と市民がパートナーシップを組み、都市部に残る貴重な里山を維持管理する例が増加している。かたや地方では、林業家顔負けの規模で里山林を保全している市民団体もある。
里山の問題を、人手が入っていない面積が広いことだと捉えれば、これはほとんど地方の問題だと言うことができる。けれども、里山の問題が、人と自然の関係性の問題だと捉え、里山と関わる人を増やすことが重要だとすれば、里山問題は都市的な問題だと考えることもできる。都市の場合、残存する里山は狭いけれども、近くに多くの住民がいる。都市住民の中には、自然に手を入れることが面倒と思うのではなく、自ら体を動かして自然に働き掛けることで社会に貢献したいと思っている人たちが少なくない。そこで、手入れされていない里山と、ボランティア活動を通して社会参加・社会貢献したいという都市住民がマッチすると、ボランティアを中心に里山を保全することが可能となる。
里山がもたらす恵みは、かつてのような薪炭、堆肥などではなくなった。しかし、特に都市においては、里山から提供される精神的な恵みの重要性が高まっている。たとえば、長時間の仕事に疲れたり、ストレスを感じたりする人びとにとって、癒しをもたらしてくれる自然が近くにあることは貴重である。実際に、教育・福祉・観光・スポーツなどの面から、里山の可能性を実践して見せている人も少なくない。たとえば、森のようちえん、冒険遊び場、森林セラピー、園芸福祉、エコツーリズム、田舎体験、ツリークライミングなど、関連するキーワードは非常に多い。都市近郊に残る里山には、現代における社会的な価値を引き出せる潜在力があると思われる。
近年、自然から得られる恵みのことは、国際的に生態系サービス(ecosystem services)と呼ばれる。これらは、食料・水・原材料等の生産・提供(供給サービス)、気候・水質・土壌等の制御・調節(調整サービス)、教育・レクリエーション等による精神的・文化的利益(文化的サービス)、生息・生育環境の提供等(生息・生育地サービス)と4つに分類される。生態系サービスは莫大であって喪失すると取り返しがつかないことから、生物多様性は守るべきと説明されることが多い。
この分類を用いて説明すれば、燃料革命以降、里山の供給サービスは著しく減少してきたし、調整サービスも損なわれてきただろう。文化的サービスについては、地域で継承されてきた衣食住に代表される里山文化は減少してきたが、新たなサービスが模索されている。そして、生息・生育地サービスは、今日きわめて重要になっている。
筆者は、十数年来、里山保全を目的とした環境NPOの活動に関わってきた。さまざまな人が訪ねて来たが、その中には、都会の中で働くことや生きることに困難を抱え、体を壊したり心が病んだりしている方、居場所を無くしている方、生きがいを持てない方などが少なくない。そういう人たちが、環境NPOと出会って、山仕事をする、野良仕事をする、同じ釜の飯を一緒に食べるという体験を経て、元気になって次のステップへ向かうことがよくある。
こうした経験から、里山という場や、里山をキーワードとして集まるコミュニティが癒しの場になっているということが分かる。都市では生きづらさを抱えていて、里山を必要としている人は多い。都市社会には、アイデンティティの不安やリアリティの欠如などの現代的不幸がある。近代的不幸とは貧困や戦争だが、現代的不幸とは近代的不幸がある程度解消された豊かな社会の中で、一体自分が何のためにこの社会に生きているのか分からず、生きている感覚が希薄になることである。
今日、地域コミュニティは希薄化し、人と場所の流動性は非常に高くなっている。このため、多くの人と場所の関係は、他の人と場所の関係と代替可能であると感じられる。こうした感覚では、ある場所へ出かけ、ある人と会っても、その人や場所のかけがえなさに出会えない。だから、自分が「今・ここ」で生きている意味が、他と関連づけられることなく揺らぎ、わからなくなってしまうこともある。そのような場合、人と人、人と場所との深い関係が必要なのだろう。幸いなことに、里山では、人が自然に働きかけることで、当人にとっても自然にとっても、ともに豊かになれる可能性が開かれているのである。

7.里山と関わる持続可能なコミュニティづくり―身近な自然を私たちの手に
里山と関わろうという気持ちがあっても、それが他者の土地であれば、勝手に入ることはできない。都市部では、残っている里山が公的に保全されていることが多いので、身近な自然の中に働きかけようと思った場合、公園緑地などで活動している団体に加わることが一般的である。ボランティア活動として楽しみながら里山と関わりたいならば、適当な選択であろう。
しかし、ボランティアとして関わるだけでは、満足できない人もいる。今日では、里山保全活動が行政の制度の枠内でしか認められないことも多いので、そういう場合は、当人の自主性、積極性が尊重されるとも限らない。そこで、同じ里山と関わろうとする同志で新たなコミュニティをつくり、そこで自律的な資源の保全と利用を図っていきたいという人びとが登場した。彼/彼女らは、一般社団法人「みんなの森財団」(→リンク)を設立し、「山を買って もっと自由に山を飛び回ろう」とキャッチフレーズを掲げ、放置された森林を購入し、それを必要とする人々が活用できるように整備している。
こうした新しいコミュニティづくりが想起しているのは、かつての地域共同体と里山との豊かな関わりに違いない。かつて里山には、個人が所有する田畑などのほかに、集落が共有する林地や草地があった。このような共有地は、国際的にはコモンズ(commons)と呼ばれている。
コモンズでは、コミュニティの構成員が独自のルールを設けて、自主的に資源を共同管理する。コモンズの資源管理がうまくいくかどうかは、コミュニティの力による。すなわち、コモンズは「みんなのもの」だから、持続的に利用できるように資源を保全していく必要があると構成員が当事者性をもって認識していれば、決められたルールは守られる。かりに、ルールを破る者がいたとしても、すぐに制裁が加えられて、コミュニティの規律は維持される。しかし、コモンズは「みんなのもの」だから、誰のものでもないと他人事のように考える者が多ければ、コモンズのルールは無視されて、資源は再生不能なまでに失われるだろう。
後者は、一般にコモンズの悲劇と呼ばれる状態であるが、現実の地域共同体では、持続的に資源が管理されている例が多い。このため、今日では国内外のコモンズについて調査研究が進められ、持続可能な人間と自然の関係について知見を得ようとしている。なお、近年ではコミュニティの外部者が、コモンズのルールを無視して資源を収奪してしまうことがある。たとえば、近年、日本では集落の共有山に部外者が無断で入り込み、山菜やキノコを採集するという問題が生じている。
里山が地域共同体のコモンズであったとき、コミュニティで決められたルールが守られ、知恵や技が伝承され、地域の生態系は保全されていた。このような人と自然の関係、そして自然を介した人と人の関係に想いをめぐらすとき、自由に里山を生かためには、自分たちで土地を所有し、自己管理すべきと考える人びとが現れても不思議ではない。この動きは、「新しいコモンズ」を共有し、共同管理することから、新たなコミュニティを創造しようとする試みとして捉えられる。
一方、里山にある豊富な未利用資源を生かして、一次産業に就きたいとか、新しいビジネスを始めたいとか、農的な暮らしを追究してみたいという人もいるだろう。すでに里山ビジネスについては紹介したが、ここでは、1990年代半ばから塩見直紀氏が提唱してきた「半農半X」というライフスタイルが注目される。これは、自分や家族が食べる食料はできるだけ自給農でまかない、残りの時間は「X」、つまり好きなことのために費やすという生き方である。たとえば、半農半ライター、半農半NGO、半農半デザイナー、半農半保育士など多様な生き方があり得る。こうしたライフスタイルは、経済的に収入が減っても精神的に豊かに暮らしたいという人たち、特に20~40代から共感を集めていると言われている。また、東日本大震災と福島第一原子力発電所事故をきっかけとして、実際に移住して「半農半X」を行動に移す人も少なくないようだ。
大正期、作家の武者小路実篤は「新しき村」という農業共同体を宮崎県に設立し、集団で働きつつ、個性あふれる創造的な生き方を理想として追い求めた。このように、「半農半X」を実践するコミュニティづくりの試みは古今東西に多数見られる。しかし、個人的な豊かなライフスタイルの追究と集団的なコミュニティづくりは対立しがちで、思想的には共感されても、実践的には食料自給や共同社会の運営に困難が生じ、一般社会に影響を与えるような広がりを得られなかった。ところが、今日、こうした動きが一定の社会的な影響を及ぼすようになっているように見える。それだけ、現在の経済活動、生き方・暮らし方に対して疑問や不安を抱いている人が増えているのであろう。
持続可能なコミュニティへの移行を目ざし、地域の暮らしについて考え、暮らし方を変えていこうとする「トランジション・タウン」という市民運動が、世界的に広がっている。そうした動きの中では、食料の地産地消を進めていこうとか、地域で自然エネルギーを創っていこうという活動も含まれる。ただし、こうしたコミュニティづくりは、その基盤に地域の里山が残されていて、はじめて成立するはずである。そうした地域の遺産がなければ、持続可能なライフスタイルは支えられないからである。
だから、燃料革命以後、私たちが手放した里山を、再び私たちの手に取り戻すことが必要なのである。持続可能な新しいコミュニティをつくるためには、新しいコモンズとして里山に関わることが求められよう。そして、里山の生態系サービスを生かした社会実験の中から、世界的にも評価される持続可能なコミュニティが生まれるのではないだろうか。

(松村正治)

雨の日も里山三昧