雨の日も里山三昧

寄り道13 里山の環境政策に関する個人講義×2

2014.5.1
雨の日も里山三昧

寄り道13 里山の環境政策に関する個人講義×2

今秋を目途に、里山をめぐる環境政策について原稿を書く約束をしているので、
あらためて里山について、きちんと考えてみようと思い立ち、
私が信頼を寄せているおふたりと連絡を取り、お話を伺いました。
ひとりは、環境省内の動きに詳しいMさんで、
もうひとりは、里山をキーワードにした環境政策に批判的なKさんです。
Mさんに尋ねたことは非常にシンプルでした。
つまり、「里地里山」は国土の4割を占めるというのに、
なぜ守るための政策が中途半端なのか、ということでした。
環境省の「里地里山の保全・活用」というページを見ると、
せいぜい点的にモデルとなる地域づくりをおこなったり、
全国の優良事例を集めたりすることくらいです。
これでは、広大な面積の里山を保全管理できないという問題に対して、
正面から取り組んでいるように見えません。
サイトには、「地域ごとに典型的な里地里山の保全活用が確保され、
そこを拠点に地域全体へ取組が波及していくことが重要」とありますが、
拠点的な取組が波及していくとは到底考えられません。
なぜ、環境省の里山保全策には迫力がないのでしょうか。

昼食をとりながら約1時間のあいだ、Mさんは次のような話をされました。

里山は、環境省、農水省/林野庁、国交省等が管轄してきた領域に重なりつつも、
ぴたっと一致するわけではないので周縁的な位置にある。
環境省の国立公園、林野庁の国有林、国交省の一級河川など、
それぞれ直接的に管轄している領域とは言えないし、
農水省が重点補助する大規模農地でもない。
このため、これまで里山は環境政策的に半ば放置されてきたと言える。
生物多様性の観点から里山が高く評価されたことにより、
省庁間の力関係において小さな環境省は、
(権益の獲得・拡大も狙ってのことだろうが、)
この領域への影響力を強めようとした。
しかし、自然再生推進法や生物多様性地域連携促進法(里地里山法)
などの枠組みを作っても予算が少ないので、
NPO等のボランティア活動を支援することくらいしかできない。
これでは、都市近郊の里山の一部が保全できることはあっても、
国全体からすれば、ごくわずかな面積に過ぎないだろう。

やはり、里山を保全しながら地域経済が動くような制度づくりが必要。
国土の4割にも及ぶと言われる里山に対して、
これまでの省庁の関係を大きく崩すことなく、
実質的に支援できるのは環境省ではなくて農水省だろう。
たとえば、中山間地への直接支払い(デカップリング)は、
里山に適用できる制度である。
しかし、農水省の本流からすると、こうした支援は傍流と思われる。
(実際、本気で取り組んでいた人はその仕事から外されたり、
大学の教員に転身したりしている。)
EUでは生物多様性保全のための直接支払いがある。
これは、おもに米国との関係からEU圏の農業を保護するというねらいがある。
それを、生物多様性保全という名目で政策をグリーン化しているとみることもできる。
けれども、これにより生物多様性とともに国土を、景観を守ることに繋がる。
一方、米国はEUと違って、市民・民間の力が強い。
国の環境政策とは別に、生物多様性保全の大きな動きがある。
日本は、EUや米国のどちらともつかず、中途半端な状態。
国土の4割という広大な面積をどうするか、理念が定まっていない。
環境省としては、優良事例集をまとめることくらいしかできない。
そこから踏み込もうとすると、農水の縄張りを侵すことになる。

環境省内で、今もっとも里山に関して力を入れているのは、
里地里山関係ではなくて野生動物関係のグループ。
獣害被害が甚大で、放っておくと大変なことになるという危機感を
痛烈に感じている(すでに大変な状態のところも)。
これまで、趣味で狩猟を楽しむハンターに野生鳥獣の管理を押しつけてきたが、
ハンターの高齢化が著しく、従来のやり方には構造的に問題がある。
既存の猟友会ネットワークで、野生鳥獣を管理することは困難。
そこで、環境省は規制を緩和して獣害防止に努めやすくして、
里山にある農的暮らしを守ろうとしている。

Mさんの回答は、私が予想していたものとほぼ同じでしたが、
省内の動きを踏まえた上での経験的なお話だったので、
裏付けを得ることができて、とても助けられました。
また、野生動物関係のお話は、言われてみれば納得しますが、
想定していなかった視点だったので有益でした。
普段、ネットを検索したり本を読んだりしながら、あれこれ考えていることも、
その道のプロからレクチャーを受ければ、すぐに解決できることが多いものです。
学ぶ上で、いい人と出会うことは決定的に重要だと、あらためて感じました。
次にお話をうかがったのはKさんでした。
Kさんは、最近出た著作をはじめ、いろいろなところで、
日本の環境を守るのに里山というキーワードではダメだと書いています。
そこで、私はKさんに対して、単刀直入にその理由を伺いました。

じっくりお話を伺ったのは15年ぶりのことでしたが、
18時に待ち合わせて辞去したのは24時と、6時間近くもお話いただきました。
このため話題が非常に多岐にわたり、また、ここに書けないことも多かったので、
そのとき伺ったお話の一部だけをまとめておきます。

まず、里山を英語に訳すると、countrysideとしか言えない。
Satoyama landscapeなんて、国際的に通用する言葉ではない。
counryside(田舎の地域)では、国の一部を意味することしかできないので、
国家的な環境政策のキーワードとすることは困難なはず。
私は里山が大好きだし、そうした環境を守るための市民活動も
農的な暮らしも実践している。
地域主義の発想から環境を考えるのはよいが、
その考え方を一般化できないのが「里山」。
地域主義でありつつ普遍主義を採りたいので「里山」ではダメ。
一方、この2つの主義を満たせるのは「流域」である。
ある場所は、必ずどこかの流域に属するのだから。
(逆に、ある場所が、必ず里山に属するとは言えない。)

地域主義のみから環境保全を考えると、
地域間の利害が衝突する際に、調整できないという問題もある。
たとえば、かつて川の増水時には、
右岸側で暮らす住民が危険を冒して対岸まで泳ぎ、
左岸の堤防を切って洪水を防ぐということもあった。
また、ある町で自然を残したとしても、
周囲の町が開発されれば孤立して、生物の多様性も減りやすくなる。
このように部分的(地域的)に適当な保全策を講じても、
全体的な環境計画が無ければ、その効果も十分に発揮できない。
里山という切り口から環境を考えている人たちは、
地域にこだわるあまり、マクロ的に問題を捉える視点を欠いている。

藻谷浩介『里山資本主義』(→コラム第49回)に書かれているような事業は、
一部では成功するかも知れないが、ほとんどうまくいかないはず。
あの本を読んで「里山で儲けられるかも!」という気になった退職者が
退職金を投資して新規事業を立ち上げると、ほとんど失敗するだろう。
結局儲かるのは、そういう退職者に対して、
里山ビジネスのコンサルティングをする人たちなのではないか。
国土の4割を占めると言われる里山放置の問題解決は、先延ばしになる。
というより、荒れるに任せるしかない。
土地を売ろうにも、敷地境界を画定するための測量費用も捻出できず、
相続が進んで土地が子へ孫へと細分化されて、
最終的にはどうしようもなくなって国のものになる。
しかし、その頃の日本は、国有化された里山を管理することができず、
国民に里山を割り当て、農的な暮らしを迫ることになる。
これでは、北朝鮮がやっていることと変わらない。
このような事態を避けるためには、まず細かく別れている里山の土地を
交換によって集約できる制度を設け、その集約された里山で、
企業が福祉と農業を融合させたビジネスなどに取り組める環境を整備すべき。

NORAは、「里山とかかわる暮らしを」というキャッチフレーズを掲げて
活動を展開しているので、Kさんの意見と対立的だと思われるかもしれません。
しかし、そうではありません。
NORAは(少なくとも私は)「里山」を環境要素として捉えているのではなく、
森里川海のうちの里と森(山)だけを守ろうとしているのではありません。
そうではなくて、「里山」を人と環境との関係性の象徴として捉えているのです。
つまり、人びとの生活、暮らしと身近な自然とのかかわりが希薄化していることを、
里山の危機として象徴的に捉え、あらためて関係を結び直すことによって、
生態系を豊かにしつつ、生活の質も高めようとしているのです。
だから、Kさんの話を伺っていても、あまり違和感を生じることはなく、
むしろ、大きなスケール感で物事を考える機会を与えられ、
気持ち良い時間を過ごすことができました。

とはいえ、普段からコミュニティ・レベルで考える習慣が付きすぎていて、
視野が狭くなっていることは痛感しました。
Kさんは、常にグローバルな視点からローカルでの実践を考えていらっしゃるので、
話を聴く者は刺激を与えられ、目が開かれる思いがします。
私も地域性にこだわることとともに、ときには全体性を希求しながら、
社会と環境とのあるべき関係を考えたいと思いました。

(松村正治)

雨の日も里山三昧