雨の日も里山三昧

寄り道9 10周年記念の座談会を終えて

2012.2.1
雨の日も里山三昧

『里山創生―神奈川・横浜の挑戦』(佐土原聡ほか編、創森社、2011年)
という本が、昨年末に出版されました。
横浜に事務所を置き、「里山とかかわる暮らし」をすすめているNORAの
1人としては、これを読まないわけにはいかない。
そう思って、今回のコラムで取り上げるつもりで目を通してみました。
しかし、全体としてまとまりがなく、取り上げにくい内容でした。
そこで、方針を変えて、1月22日(日)に開催した
NORA10周年記念フォーラムに関して書くことにしました。
特にここでは、第2部のシンポジウムにおいて、
私が座談会のコーディネーターを務めたことから、
このときの議論を通して、あるいは議論の後に考えたことを書きます。

第2部のシンポジウムにお招きしたのは、
寺川裕子さん(里山倶楽部)[大阪府河南町]、
相川明子さん(青空自主保育なかよし会、山崎・谷戸の会)[神奈川県鎌倉市]、
十文字修さん(循環の島研究室)[新潟県佐渡市]でした。
これらゲストの方々は、「里山」や「NPO」という言葉が、
ほとんど社会に知られていない時代から活動されていました。
時代を切りひらき、時代を作ってきた先駆者、と言ってもよいでしょう。
普段から、連絡を緊密に取り合っている間柄ではありませんが、
ときおり聞こえる便りから、志の高さ、懐の深さ、
発想の豊かさに刺激を受け、活動を続けてきました。

座談会の冒頭で私は、都市近郊の里山保全活動の30年史にふれ、
以下のように問題を提起しました。
たしかに、「里山」という言葉は広く社会に知られるようになり、
守るべき対象としての価値を高めることに成功し、
都市近郊では新住民を巻き込みながら保全管理する制度が整ってきた。
しかし一方で、NORAにしても、
多くはボランティアの志に頼っている部分が多く、
けっして十分な雇用を生み出しているわけではない。
また、地方に視線を向ければ、過疎高齢化が進み、
(座談会の前に)十文字さんが報告されたように、
特に限界集落においては、広大な里山を前にして、
希望を見出しにくい状況にある。
こうした状況を踏まえて、都市と地方の両者を射程に入れて、
これからの里山とかかわる暮らし方や稼ぎ方について議論したい、と。

結果的には、この議論はかみ合いませんでした。
むしろ、停滞した後に拡散してしまったと言えるでしょう。
ただし私個人としては、考えるべき問いを得られたという実感があります。

○仕事と暮らし
十文字さんは、限界集落に住みながら、
里山とかかわって働く難しさをお話になりました。
NORAも、この10年を振りかえると、
ずっとこの問題を抱えてきたように思います。
NORAは、設立当初、「里山で起業する!」というキャッチコピーを
掲げていましたが、その後、「里山でシゴトする!」となり、
最近は「里山とかかわる暮らしを」と変わってきました。
この変化は、里山とかかわって働くことの難しさを経験してきたという
現実的な対応という側面が強いのですが、それだけではありません。
むしろ、仕事よりも暮らしの方が、
長く深くかかわれるのではないかという、
より積極的な理由もありました。
一方、「好きなことして、そこそこ儲けて、いい里山をつくる」という
キャッチフレーズを掲げている里山倶楽部。
寺川さんをはじめ主要なメンバーは、
半農半X的に、2足、3足、いや10足のわらじを履いて、
仕事をやりくりしながら暮らしを立てているそうです。
無償ボランティアとは一線を画しつつも、
仕事と暮らしのバランスを取っていこうというスタンスが明確です。
ただし、会員全員がそのようにしているわけではなく、
人によっては、林業でセミプロ的に働く人もいれば、
週末のリフレッシュのために活動に参加する人もいるようです。
こういうNORAの場合は、生計を立てるための仕事を持ちつつ、
プロボノ的にかかわっている人が多いです。
(プロボノとは、職業上持っている知識や技術等を
活かして社会貢献するボランティア活動)
できれば、スタッフがNORAで活動しながら、
生活していけるお金を生み出せればよいのですが。

○活動の原点
里山倶楽部では、炭や薪、リース、米、野菜など、
里山の恵みを販売して収益を上げています。
なぜ、それが可能となっているのかを寺川さんに尋ねたところ、
そこが活動の原点であるので、
いつもどうしたらそこそこ儲けられるかを考えている
という答えが返ってきました。
たしかに、かつての里山は、生活の必要のためだとか、
いくらかでも収入が得られるからという理由で適当に管理され、
そこから恵みが得られたのですから、
やはり、儲かる仕組みを作り出すのが重要だという
立場なのだと思います。

一方、相川さんは、青空自主保育グループをつくり、
谷戸で子どもたちを遊ばせる活動が原点でした。
遊び場としていた谷戸に都市公園が作られることを知り、
公園計画を見直すように運動を始め、
その後の紆余曲折を経て、鎌倉中央公園は開園しました。
その後、この公園を鎌倉市と協働運営する山崎・谷戸の会の
事務局長を務めていましたが、つい最近、後任に引き継いだそうです。
しかし、青空自主保育には、かかわり続けている。
子どもが思いっきり野外で遊ぶ、楽しむために、
谷戸を、里山を守ろうとしてきた相川さんも、
ぶれずに活動を継続されてきたと思います。
子どもが裸足で、さらには裸になり、
泥んこになって遊ぶ環境があるとき、
その場所を親たちも一生懸命汗をかいて良くしようとする。
そういう姿が山崎の谷戸では見られるようですが、
持続可能性なんて言葉を使わなくても、
野外で子どもたちが思う存分遊ぶ環境があれば、
大人はそれをいつまでも残そうと思うことでしょう。

十文字さんは、舞岡での公園づくりを続けていく中で、
里山での暮らしの原点に立ち返りたいと思ったそうです。
地方を後にして横浜に大量に人がなだれ込んでくる。
逆に、多くの人が流れ出ていく地方はどうなっているのか、
この目で確かめてみたいと思って、
そこで、都市の中に計画的に残された里山型公園を離れ、
「日本の縮図」とも言われる佐渡島に移り住んだのです。
そこには、貧しくても豊かな自然と、
隣近所が助け合う人びとがいると考えていたのかもしれません。
しかし、すでに里山とともにある暮らしは非常に早い速度で消えつつあり、
それを受け継ぐ人ことが難しくなっています。
むしろ、都市近郊であれば、山崎の谷戸のように、
里山とともにあった暮らしを新住民が記録に書き留めて、
市民参加型の公園で残している例があるのに対して、
佐渡においては、新しく活用することもできずに
手の入らなくなった広大な里山がある。
高度経済成長期に地方から都市へと人びとは移動し、
燃料革命によって価値を失った里山は放置されました。
佐渡の里山は、この成長期の裏側を象徴しているとも言えます。
そのことを踏まえて十文字さんは、
現在の都市近郊では、高度経済成長期に会社勤めをし、
退職後の余暇で里山に向き合っている人が多いのではないかと
刺激的な問いを投げつけました。

この問いは、私に活動の原点を見つめなおす機会となりました。
かつて、このコラムで私は、なぜ里山とかかわるようになったのか、
その経緯を自分の過去を振り返りながら確かめましたが、
そのことを思い起こさせることになりました。
そう、私の活動の原点は、貧しい里山への愛憎だったのです。
座談会のさなか、そんなことを考えて、
少し議論が深みにはまりかけたとき、
相川さんから「松村さんはネガティブに考えるタイプ?」と言われ、
それがNORAの問題として捉えてほしくなかったので、
最後にはポジティブな方向に議論を持っていきました。
しかし、時代から置いていかれた里山をどうにかしようとしている
という意味では、明らかにネガティブなものに共感しています。
これは私の活動の原点なのです。

実は、「ネガティブ」の言葉が出たとき、
私は2007年6月に東大安田講堂で開かれた
公開自主講座「宇井純を学ぶ」を思い出しました。
そのとき、若い友人が、
「ポジティブは残る、ネガティブは消えていく」と言いました。
つまり、ネガティブな公害は忘れられ、
ポジティブな環境学が(東大で)盛んになったことを鋭く指摘しました。
貧しい里山は消え、里山学の研究は盛んになり、
楽しい保全活動は残るのでしょうか。
冒頭に上げた本などは、そういう証左かもしれません。

なかなか、話がまとまらないのですが、
私の原稿が上がらなくてメルマガを配信できないといけないので、
この辺でやめておきます。
ともあれ、いろいろと考えるべきテーマをいただけた座談会でした。
ご登壇くださった寺川さん、相川さん、十文字さんに、
ここであらためてお礼を申しあげて、今回のコラムを終えます。

(松村正治)

雨の日も里山三昧