第30回 『さとやま』(鷲谷いづみ)
2011.10.1雨の日も里山三昧
鷲谷いづみ『さとやま』(岩波ジュニア新書、2011年)
3.11以降、当然、このコラムを書く気持ちに変化がありました。
コラムを書き始めた当初は、書くスタイルが定まりませんでしたが、
次第に、NORAの活動に関わる本や映像を取り上げて、
著者との個人的な関係なども交えながら批評するという書き方に慣れました。
ときおり、「寄り道」や「閑話休題」を挟むことがありましたが、
あくまでも例外として捉えていました。
しかし、3.11以降、原発事故に何も言及せずに、
ただ里山に関して語ることが難しくなりました。
だから、結果的に、4~9月に書いた6本のコラムのうち3本は「寄り道」で、
残りの3本のうちの1本は原発関連本を取り上げることになりました。
けれども、こうも考えます。
私は10代の頃に原発のことを考えるようになり、
その後、地球環境問題へ関心が移り、
そして、身近な里山の問題へと焦点を定めるようになりました。
原発と里山はまったく別の問題と見えますが、
私の中では(明確に言語化できていませんが)、つながっているのです。
だから、一見遠いように感じられるけれども、
自分が取り組んでいる里山というテーマについて変わらずに考えを深め、
行動していくことが大事なのではないだろうか。
そこで思考を掘り下げていくことにより、原発を考えるときに、
私なりの、NORAなりの視角が得られるかもしれない。
そんな風にも考えます。
いろいろと考えて頭を整理できないならば、
できないなりに書いておくことにも意味があるのではないか、
そんな風に考えられるようになりました。
そこで、今回取り上げる本は、『さとやま』です。
しかし、漢字で「里山」と書かずに、
あえて「さとやま」と平仮名書きしているところが特徴的です。
もう1つ特徴を挙げると、副題の「生物多様性と生態系模様」における
「生態系模様」という表現です。
この2点についての私の評価は後で述べます。
そうした細かい点よりもまず、この本の著者・鷲谷いづみさんと、
私がどう関わってきたのかを説明しましょう。
と言っても、私は鷲谷さんとほとんど面識がありません。
一度、エレベーターでご一緒したとき、簡単に挨拶を交わした程度なので、
きっと覚えていらっしゃらないと思います。
だから、関わりと言っても、読者としての一方的な関わりです。
私が最初に鷲谷さんの書かれた本を読んだのは、
『日本の帰化生物』(森本信夫と共著、保育社、1994年)でした。
これは、帰化生物の問題を理解する上で面白かったのですが、
著者に対する印象はほとんどありませんでした。
しかし、今から15年前に出た『保全生態学入門』
(矢原徹一と共著、文一総合出版、1996年)は私にとって衝撃的で、
それ以来、鷲谷いづみという研究者を強く意識するようになりました。
『保全生態学入門』は、タイトルのとおり、
保全生態学という学問分野を初学者に紹介する入門書です。
この本は、教科書としてよくできていて、わかりやすく書かれており、
当時、急速に発展していたこの分野の魅力が十分に伝わってきました。
里山では、人が適度にかかわることで生態系が豊かになると言われますが、
そうした内容について、保全生態学という学問で扱えるということを知り、
高揚した気分になりました。
私が、もう少し生き物のことが好きで、多少詳しかったら、
大学院では環境社会学ではなく、保全生態学を学んだと思います。
それくらい、保全生態学が輝いて見えました。
しかし、その後、私は社会学の視点から環境(問題)を捉えるようになると、
鷲谷さんの書かれた本を読んで違和感が残るようになりました。
鷲谷さんの場合、生物多様性という視点で生態系を見ます。
評価するときに何かしらの視点を定めることは必要ですが、
それを「正しい」視点としてしまっているように思われるのです。
私の場合、そうした見方が「正しい」かどうかは研究者が決めるのではなく、
社会が決めると思っているので、そこに埋めがたい距離を感じます。
このように鷲谷さんとの立場の相違を感じますが、
環境や生態系を捉えるときに、
理系の視点が大切であることは言うまでもありません。
参考にしている理系の研究者は数人いますが、
その中でも、生物多様性、里山、自然再生といったキーワードを掲げ、
いつも情報を発信し続けている鷲谷さんの動きには、
今でもずっと注目し、ほとんどの著作を読んできました。
私は鷲谷さんとの隔たりの理由がわかっているので、
その点を意識的に括弧に入れて読めば、
とても教えられることが多いのです。
鷲谷さんは、一般向けに文章を書くのがうまいので、
誰にもわかるような本を多く出版されています。
『生態系を蘇らせる』(NHKブックス、2001年)、
『自然再生』(中公新書、2004年)、
『〈生物多様性〉入門』(岩波ブックレット、2010年)など
挙げていけばきりがないほどです。
どの本を読んでも、鷲谷さんの生き物に対する情熱が伝わってきます。
精力的な著述という行為からも、大きな刺激を受けます。
さて、今回取り上げた本の特徴に関してですが、
岩波ジュニア新書という中高生向けの本ということもあり、
これもまた読みやすく書かれています。
また、最新の里山、生物多様性に関する動向も書き込まれており、
とりあえずの1冊としては、とても優れた本だと思います。
そのように総合的に評価した上で、
この本を特徴づける2つの言葉についてコメントします。
タイトルに用いられた「さとやま」という言葉は
「里地・里山」と呼ばれている地域を指すと書かれています。
もともと里山は、奥山に対して里に近い山という意味で用いられていましたが、
それでは、田畑、草地、ため池なども含めた
二次的自然の問題をトータルに扱えないことから、
これらをまとめて、「里山」と表現されるようになりました。
しかし、環境省は、里山のもともとの意味にこだわり、
それ以外の集落周辺にある二次的自然を里地として、
「里地・里山」という言葉を普及させようとしました。
けれども、日常用語としては、この言葉が用いられることはまれで、
もっぱら同じ対象を、ただ「里山(さとやま)」と呼ぶことが多いので、
その実態を踏まえて、この本では「さとやま」としたのだと思います。
私が同じ対象を指そうとするならば、「里山」と書きます。
「里地・里山」「さとやま」のどれも対象は同じと言ってよいので、
言葉の受け取る側のことを考えて、普通に「里山」と書くのが、
もっともイメージを伝えやすいと思うからです。
逆に言うと、「里山」と書かないときにこだわったところが、
受け止める側に通じないならば、あまり意味がないでしょう。
この点で、「さとやま」と記そうとする意図は理解できますが、
この表現が適当かどうかはわかりません。
つぎに、「生態系模様」という用語ですが、
これは、集落を中心にして、
雑木林、屋敷林、竹林、田畑、草地、ため池など、
多様な環境がモザイク状に散りばめられた景観を表しています。
鷲谷さんは、「パッチとしての小さな生態系を
組み合わせてできるモザイク模様」と定義されていますが、
これを「生態系模様」と呼ぶのが適切かどうか。
私は納得できませんでした。
つまり、この本の題名、副題に込めた2つの特徴的な言葉は、
あまり効果を上げていないと思いました。
もちろん、私の評価が正しいとは限りません。
「さとやま」や「生態系模様」という言葉が、
人びとに広く受け入れられるかもしれません。
言葉に対する感覚とは、時や場所、人によってまちまちです。
だから、仮に専門家が客観的に「正しく」定義をしようとしても、
その感覚が正しいとは限らないはずなのです。
言葉が社会に流通するときには、
定義した者の手から離れて、広がっていきます。
もし、言葉が意図したように伝わらないとしたら、
それは、一般の人びとの考えが足らないからではありません。
言葉の意味とは、世界に書かれているのではなく、
人びとの心の中にあるということを見誤ったからだと思います。
これまでうまく表せなかったことを、
新しい言葉で捉えることは大切な力です。
しかし、自分だけがわかったように書かないこと。
この陥りやすい落とし穴を避けつつ、
言葉にこだわり、新しい領野を切りひらくことが、
求められていると思います。
私たちと自然とのあるべき関係性を指し示すために、
ぴったりな表現を探し続けたいと考えています。
(松村正治)