寄り道42 個-Co時代に人と人の間に生きる
2019.11.1雨の日も里山三昧
学生のボランティア活動をコーディネートしているため、まとまった時間のボランティア活動を終えた学生たちと、しばしば面談をおこなう。
活動中に困ったことはなかったかと尋ねると、決まって相手との関わり方、距離の取り方が難しかったと答える。
お年寄りにしても、子どもにしても、障がい者にしても、人それぞれ違いがある。
相手のできることを見守り、できないことを支える。
そのことを理解しつつも、いったいどう関わるといいのか。
してはいけないことに対して、どのように注意するのが適切なのか。
これらは、人と人の間に生きる人間として、普遍的な問いである。
私も同様の問いに日々向き合っている。
たとえば、大学教員として、学生の自主性をどのように引き出し、成長しようという若者の思いをどうサポートするのか。
あるいは、息子として、認知症を患っている母の今後の暮らしについて、次第に状況を理解することができなくなっていくなかで、本人の意志をどこまで尊重して考えていけばいいのか。
これらの問いに対しては、基本的な考え方はあっても、普遍的な正解はない。
だから、正解に近づこうとすることはできるし、そうすべきだけれど、原理的に到達できないので、答えを求めすぎると無理が生じる。
悪くすると、心や体を深く傷つけることになる。
本人も、その向き合う相手も。
なぜ、こうした問いに答えはないのか。
それは、この問いが他者に開かれているからである。
他者とは自己とは異質な固有性や異質性を持つために、
つまり、他者を他者たらしめている他者性によって自己とは区別される。
このため、他者とかかわるときに踏み込む領域は、
自分にとってコントロールできない部分を必然的に含む。
この絶対的な限界があるために、私たちは悩む。
ときに、いら立ち、苦しむ。
しかしもちろん、他者とのかかわりは、悩みや苦しみをもたらすだけではない。
この了解が不可能な領域だからこそ、
お互いに理解し、心が通じ合ったと思えたときには、
この上ない歓びを感じることができる。
社会学者の見田宗介は、このように歓びも悲しみももたらす「他者の両義性」を原的な出発点として、社会のあり方を構想している。
私も、この両義性をしっかりと把握するところから、まずは自分の生き方を考えたい。
そして、人と人の間に生きる私たちの生き方について、仲間とともに話し合いたい。
さて、このように方針が定まったとしても、思うようにできるかは別の問題である。
最近の大学教育では、「答えのない問い」がキーワードとなっている。
かつては、多くの問いに早く正確に答える人材を育てようとしてきた。
高度成長期の社会モデルでは、こうした教育観が妥当だった。
しかし、バブル崩壊後、高い経済成長を望めなくなり、中央集権型社会の弊害から新自由主義的に分権化を進めた平成期を通じて、この教育観は社会に合わなくなっている。
課題先進国とも言われる成熟社会では、多様な主体が協働して取り組むことが求められる。ボトムアップで解決する力が必要であり、「答えのない問い」に積極的に取り組む学生を育てようという声が急速に拡大している。
この流れは、一時的なブームで終わるものではなく、しばらく止まることはないはずだ。
「答えのない問い」の多くは、他者性を含むために、原理的に答えがない問いである。
だから、最終解決を目標とすると、無理が生じる場面もあるだろうと危惧する。
そして、そのような問いに挑戦する学生が、大学で育つのかと考えてみると、かなり疑問である。
大学教員とは、基本的に各専門分野の研究者である。
研究成果を発表し、学術論文を執筆することによって評価され、教員となった人がほとんどである。
彼(女)らは、答えられるように問いを立てることに長けている。
もちろん、簡単に答えられる問いでは、答えを導く道のりが平板になるので、自分のオリジナリティが発揮できるように適切に問いを立てる。
学生の卒業論文について指導する際に、その多くの時間を、どのように問いを立てるかに集中させる。
なぜなら、教員にとってはその点が得意だからであり、また、そうしないと論文がまとまらず、提出の締切に間に合わなくなるおそれが生じるからである。
しかしながら、論文作成のプロセスに付き合っていると、決まった時間内に形式の整った文章を書くために、学生の持つ潜在的な魅力を削いでいると痛みを感じることがある。
学生一人ひとりが考えていること、考えたいことは、いつも私の手に負えない。
私を大きく超えている。
だから、学生のために指導してきたつもりでも、それは私自身を守るためだった面もあったに違いない。
教員-学生という力関係が、そうした保身を隠してきたのかもしれない。
私が大学教員になった経緯をふりかえってみると、今につながるルーツは、小学高学年の頃だと思う。
その頃、中学受験のために勉強をしていた。
算数が得意であった。
自分で答えを確かめられるから、好きだった。
計算をして答えを出す。
逆算して問題にたどり着けるならば、この答えは正解だ。
また、違う解き方で解いてみる。
同じ答えが出たら、まず正解だろう。
こんな風に試験時間内に、すべての答えを自己チェックできるから、好きだった。
この頃の快感は、正解にたどり着けたことの嬉しさだった。
普遍的な世界と自己が接続できた歓びであった。
最近は、自己完結できる問題を解くのに魅力を感じない。
年齢を重ねて、自分ができることの小ささを思い知り、
気力と体力が衰えていくなかで、
あらためて人間とは人と人の間に生きるものだと感じている。
だから、人間社会を超越する普遍性を求めない。
いま私とかかわる人びととの関係について、そのあり方を考えたい。
考えてたどり着きたいのは、正解ではない。
人が「正解のない問い」について悩んでいるとき、一般的な答えを示してくれる「正しい」人がいる。
当人が悩みを解決したいと切実に訴えている場合は、それでいいこともある。
しかし、当人がその悩みを大切なことだと考えている場合、そのアプローチは適切ではない。
身も蓋もない「正しい」答えは対話の芽を摘み、関係を遮断する。
「正しい」人は悩みを聞くことよりも、答えることに前のめりになっていることが多い。
対して、悩みを聞いて、ともに考えるところから始まるコミュニケーションには、当人の世界観を変え、うまく悩めるようになる可能性が含まれている。
問いとは、答えて終わらせるよりも、抱えて考え続けて生きる方が、大事なことがある。
原理的に答えられない問いに答えると、必ず少しの嘘が含まれる。
ときに、それは必要な方便となるし、とりあえずの答えを出せと迫られることは多い。
だから、生きるためには、仕方ない。
しかし、そのときに感じる痛みこそが、自身を成長させる。
そう信じて、周囲とかかわっていきたい。
さしあたっての答えを出し、違和感をもとに考え、また暫定的に答える。
これを繰り返すという人間の条件を引き受け、正直に生きることを目ざしたい。
嘘をついて生きていると苦しくなるから、等身大に自由に生きたいと願っている。
タイトルに付した「個-Coの時代」とは、今日の協働型社会では、個として自由を求めることと、他者と共に働き生きることのバランスが求められるという時代認識を表している。
いま、あらためて、人と人の間に生きる私たち人間への深い理解が求められている。
(松村正治)